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同じくペールラシェーズ墓地の話をしたいと思います。
とにかくここはひとつの街のように、大きな街路樹のある通りで区画が管理され、まるで住宅地のように○○通りの○○区画○○番地というように墓域が並んでいます。
大きさは多少違いはあってもさすがにフランス革命で自由平等を勝ち取った民族だけにある程度の大きさで揃っています。
ただ、お墓の形は先程のショパンの様にデザインの凝ったものもあれば、家の形の人が立ち入れるもの、あっさりとお棺の形で蓋をしたものなど千差万別です。
また、使用している石も、御影石あり、大理石あり、フランス産の石灰岩ありと見た目も材質もバラエティに富んでいます。
墓地の中を歩いていると結構な人だかりがあって、近親者の納骨かあるいは命日に墓参りかと思い、ちょっとその集団を避けて回っていこうとしたところ、どうもそんな悲しく神妙な様子はなく、明るい声で大きな話が聞こえてくるので興味を引かれてしまい近づいてみました。
するとそこは、まるで観光のツアーガイドよろしく、一人の男性がまるで関係のない人たちを連れて、霊園内のお墓巡り、有名人の墓ツアーをしているところでした。
皆で見ていたのは歌手で俳優だったイブモンタンのお墓とのこと。
あとで調べてみると、あのマリリンモンローと一時恋仲になり大きく世間を騒がせたとのことですが、お墓自体はあっさりとシンプルで材質も地元の石灰岩製でかなり地味なものでした。
そしてそのマリリンモンローと浮名を流していた時にも、イブモンタンは結婚しており結局はマリリンモンローと別れてその奥さんの元に帰っていったという事で、その奥さんも同じ墓石に刻まれていました。
奥さんも有名な歌手で女優のシモーヌ・シニョレという名前だそうですが、確かに墓碑の上に奥さんの名前、下にイブモンタンと彫ってありました。
意外な個人の歴史と夫婦の歴史が墓石に刻まれていて、それまではあまり知らない過去の人でも何か親近感を感じてしまいますね。
最後の写真は、そのままガイドさんに付いていって無料で(調べたらお墓巡りツアーは一人2000円位からたくさん流行っているそうです)ちょっとだけ聞き耳を立ててガイドさんが言っていたことです。
「この墓地はカトリックもイスラームも仏教徒も関係なく隣り合ってお墓を建てていても問題ないが、共産主義者や独裁主義者のお墓だけは隣にならないように一カ所に区切って建ててある」とのこと。
宗教の自由は認めても、主義主張はさすがに自由の国、或いはナチスと戦った国だけあってそこは区別しているところが面白いと感じました。
ただガイドツアーの皆さんもその話の後笑っていましたので、フランス人特有のエスプリなのか本気なのかはわかりませんが・・・・
今回訪れたパリは、トランジットの為にシャルルドゴール空港の乗り継ぎで降り立った以外では何と35年振りの訪問でした。
フランス自体はその後も何度か訪問しているし、上記のようにパリ経由でエアフランス乗り換えは何度もあり縁遠い国ではなく、何年か前にはある設計士の依頼でフランス南部のトゥールーズ近郊でパロマやヘンリーフォーと呼ばれるフランス産のグレー大理石の産出丁場まで石を検品に赴いたりしたので、それほど間が空いたとは感じていなかったのですが、やはり石の仕事優先となるとイタリアやスペイン、ポルトガル、ギリシャ等の有名大理石産地国の方が、圧倒的に訪れる回数が多かったからでしょう。
フランスも先ほどの南部のトゥールーズやランゲドック地方からは赤色の大理石が出ますが、基本的には石灰岩が主流で、前述の大理石も今はほとんど産出しなくなってきています。
そんな中での今回のパリの訪問で、何と最初に行ったのが、パリ市内にあって最大の面積(43ヘクタール)を誇る、ペール・ラシェーズ墓地でした。
ここは墓石業界、大理石業界人には特に有名な場所で、何人もの著名な人のお墓、また大理石彫刻のデザインも精密でバラエティに富んでおり是非一度はと思っていた場所です。
ここに眠る有名人をあげたらきりが無いほどですが、一例をあげると
・エディットピアフ
・オスカーワイルド
・モリエール
・バルザック
・ドラクロワ
・イブモンタン
などなどですが、一番有名なのは大理石彫刻の素晴らしいショパンのお墓でしょう。
イタリア産と思われる白い大理石の女性像が象徴的で、台座にはショパンの顔のレリーフが彫りこまれています。
訪れる人が絶えないせいでいつも周りには花が供えられています。
ショパンは偉大な音楽を遺したと同時に、素晴らしいお墓の継承で現代の人々にも感銘と驚きを遺してくれているのですね。お墓のあり方が改めて問われていると感じました。
写真①はたくさんある入口の中のメイン 正面出入り口
写真②は墓地全体の地図とここに埋葬されている有名人の名前と場所
写真③はショパンのお墓
「スペインに一日しか居れないのならトレドに行くべきだ。」
「トレドは街全体が博物館である。」
と現地の人に言われて、マドリッドから車で1時間ほどの古都トレドに行きました。
ここは初めは西ゴート王国の首都として繁栄し、スペインの都市国家間の割拠時代もトレド王国の首都として近隣ににらみを利かし、またスペインにイスラム教が入ってきたときにもそれなりの存在感を持ち続けていましたが、近代のスペイン王国統一時に首都機能としては小さ過ぎて多くの人口を収容しきれず、平地でいくらでも拡大できる今の首都マドリッドに移ってからは、人知れず中心地としての地位が無くなってしまいました。
日本で言うと、東京から言う所の鎌倉の地であったり、京都から言うと奈良の地と言ったところでしょうか。
とにかくここは写真のように、自然の川の流れを外濠として大きな丘全体が城郭都市のように近隣の平地を睨んで聳えています。自然の岩や地形をうまく利用して石の城壁を組み、外敵からの守りには絶対的な要塞となっています。まるで大坂冬の陣で惣堀を埋められる前の秀吉建立時の大阪城のように難攻不落の城塞だったと思います。
現に1930年代の第二次世界大戦の先駆けとなったスペイン内戦時にも、この地形を生かして近代兵器でも陥落させることが出来なかったそうで、まさに昔の人の場所を見る目は古今東西、世界中で共通しているのかもしれません。
このトレドの中央部丘の上に、大きな教会があります。
トレドの大聖堂として観光案内にも載っていますが、ゴシック建築の大聖堂で高さを競い、尖塔を持つ教会ですが、面白いことに教会の製作年代が数百年間に及んだせいで、外観も内部も左右対称でなく、途中でルネサンス調を取り入れたり、イスラム教時代のアラビア様式が入っていたりと、何とも東西や年代の融合した建物となっていて面白い大聖堂です。
ここは内部の写真撮影も一部を除いて許可されていて、スペイン人のおおらかさや、こだわりの無さを感じます。
おおらかと言えば、トレドの大聖堂内にある黒い肌のマリア像もスペインの特徴かもしれません。
黒い肌のマリア像で最も有名なのはモンセラット山のマリア像ですが、そちらも同じくスペイン国内にあります。スペインはモロッコや北アフリカに近く、またアラブの人々とも交流があり、北ヨーロッパの人たちのように肌の色に異様にこだわることが無いのかもしれません。
そして、トレドの芸術家と言えば何といってもエル・グレコです。
元々エル・グレコはギリシャに産まれましたが、ここトレドが気に入ってトレドに居を構えて活動をしていました。
その為か、この大聖堂にもエル・グレコの宗教画がたくさんあります。
最後の写真は、エル・グレコのキリスト磔刑の絵ですが、当時の宗教界、美術界を騒然とさせ、多くは異端であるとされたものです。
理由はお判りでしょうか?
答えは敢えて書きません。
ヒントは色と光です。
続いて、ガウディの住宅設計の実例を紹介します。
写真1はカサ・バトリョ(バトリョ邸宅)です。
バルセロナ市内の中心地にあるカサ(邸宅)ですが、邸宅とはいえ日本なら数世帯、数十世帯が住むことが出来る中型マンション一棟分くらいの大きさです。
世界遺産に登録されてからは、一回当たりの入場制限もあり、中の見学ではこれだけ並んでないとは入れないです。
外壁のファサードは砂岩を加工した石柱で、地元では骨の家と言われているそうです。
また、外壁上部にはタイルが外壁一面に貼られて、設計上はグエル公園から流れを汲んでいながら、更にそのタイルに厚みや重なりを持たせ立体的な表現をしています。
バルコニーは仮面や骸骨の顔をイメージさせ、合わせて色ガラスで目や顔の雰囲気を更に醸し出しています。
個人的にこの建物に住みたいかどうかは意見の分かれるところと思いますが、、とにかく世界観が変わりますね。
次の写真2は、なんとも奇抜な直線が一切無い,曲線だらけの建物、カサ・ミラ(ミラ邸)先程のカサ・バトリョから歩いて5分程のほんの近くにペレ・ミラ氏の邸宅として設計された個人邸です。こちらも先程のカサ・バトリョ同様、6階建てか7階建てか個人邸とは言えマンション一棟分の大きさです。そしてこちらは固い花崗岩(御影石)を多様した外壁で更には直線を使わず、曲線だらけ。石屋としてもっと驚くのはその石は原石を積み上げた塊りも構造材になっていて(日本のビルは表層を石で貼る装飾材です)まるで、石の採掘場(丁場)がそのまま建物を形成しているような感じです。
そして屋上に上ると、もっともっとびっくりです。
写真3はその屋上の何とも奇抜な風景です。
皆さんは何を感じますか?
どんな感覚が生じてきますか?
屹立している細い尖塔のようなものは砂岩を使った煙突で、屋上屋を重ねるようなごつい小屋のようなものは階段の出入り口のある階段室、この景色だけは現地で実感しないとその迫力を説明しるのは難しいかもしれませんね。
でもこの景色がカサ・ミラの屋上に上がると突然現れ、その衝撃たるや、少しでも読者の皆様に分けて上げられればと思いますが・・・・
とにかくこのカサ・ミラの花崗岩の外壁と屋上の異空間は一見の価値ありです。
バルセロナ、ガウディ、で連想されるのは、ほとんどの方がサグラダ・ファミリア(聖家族教会)だと思います。
ただ現地に行くとガウディの作品が至る所にあり、またそれぞれ文化遺産や世界遺産に指定されており、見るものはたくさんあります。
サグラダ・ファミリアに続き数カ所ガウディの作品を見ていきたいと思います。
バルセロナの市街地から程近い少し高台のあたりに、グエル公園というのがあります。
ここは、バルセロナの実業家であり富豪であったエウゼビ・グエルという人がバルセロナの人口拡大に合わせて、裕福層の人々の新興住宅地として、当時禿げ山だった地区を買収し、ガウディに全体の都市設計、都市計画を依頼したのもです。
先にこの大規模事業の結果だけを言うと、新興住宅地としての販売に関しては失敗でした。
団地の入り口の門番の家や団地入口のエントランス、カトリックの協会、住民共有の広場や多目的共有施設、雨にあたらず人が通れる回廊や、自動車や馬車の通れるメイン道路など居住区以外はほとんど完成して、超高級住宅地としての体裁は整ったのですが、肝心の販売用の分譲宅地はバルセロナの法令もあり広大な各区画面積に対しては6分の1の建物しか作ることが出来ずに(日本でいう建蔽率と同じようなものか?それだと建蔽率17%???土地効率がとても悪い。)約60区画の販売予定区画は全く売れなかったようです。責任を感じてかガウディもこの中に土地を買い、家族の別荘を建てて使っていたようです。
結局、この公園はグエル氏の子孫がバルセロナ市に売却し、その後バルセロナ市営の公園として一般公開され、今はユネスコ世界遺産に登録されています。
話をグエル公園の現状に戻したいと思います。
いともすると、ガウディの作品は奇抜さやデザイン性だけに注目されがちですが、実際には実用的な観点で設計されたものが中心となっています。例えば共用広場の雨水の流れに注目し、雨樋や排水路の設計を考えて、石彫刻のライオンの口から雨が滴ってくるようにしたり、一階部分の柱の中に排水路を入れて外からは雨樋が見えなくなっていたりと、実用性や、自然を生かしたものとなっています。
また、柱の形や回廊のデザインも、単に思い付きのデザインでなく、今でいう構造計算や強度計算を独自の方法で行っており、決して奇抜さだけがガウディの本質ではないというのが、今回改めて感じました。
更には、今で言う人間工学に基づいて、人の体の曲線に合わせて、座り易い椅子やベンチ、握ってしっくりくるドアの持ち手やノブ、登り易い階段やスロープなど、直線よりも曲線を多用しています。
極論で言うと、実用とち密な計算と芸術性の融合がガウディのデザインなのでしょう。
それが曲線の多用と奇抜な色使いになっているのかと思います。
石屋からすれば、曲線はR(アール)加工があり、原価が直線(平面)の数倍の価格になります。
ご存知のように石は金属のように曲がらないので、曲面の分は平面を削って曲面研磨という、石の量も加工の技術もとんでもない作業となります。
このグエル公園はその曲面が多用されています。石の費用はどれだけかかったのだろうかと心配もしましたが、近くで見ると平面の多面体を使っている個所も多く、曲面に平らなものを幅狭めて短冊形に貼っていき、遠くから見ると大きな曲面、曲線になっている手法はそれなりに予算や工期を意識したのかと思います。
また、石と同様、タイルも曲面に張り付けていますが、それが敢えて四角いタイルを割って(一部説明では割れたタイルや余り物を好んで安く購入して)多面体としてアールを作っていて、タイルの割れた感じと余り物を使った(と言われているが果たして疑問ですが)色のバリエーションが、更に芸術性を高めているのかもしれません。
現代の建築家や設計や、建築に携わる人たちにとっても大変参考になるものです。
スペインと言えば、首都はマドリッドですが、観光で有名なのは何といってもバルセロナでしょう。
もちろんアルハンブラ宮殿で有名な南部のアンダルシア地方や大理石とオレンジで有名なバレンシア地方など、魅力的な街はたくさんあるのですが、やはり一度はバルセロナは訪れたい街です。
スペイン第二の街でカタルーニャ地方の中心都市、今でもマドリッドに対してのライバル意識だけでなく、独立運動も激しく、独立の国民投票の動きまであります。
もともと主な産業は地中海貿易やヨーロッパとの交流の窓口として商業で栄え、そしていち早く産業革命を取り入れた重工業都市でもあり、スペインの中でも比較的豊かなエリアです。
そのせいでしょうか、マドリッドにはお金持ちも多く、街つくりや建物にお金をかけていいものを作り、そして競い合った様子が見られます。
その最たるものがあの有名なサグラダ・ファミリアでしょう。
これに関しては今更私が何をかいわんやでしょうが、サグラダ・ファミリアの石について述べたいと思います。
遠目で見ても、これが石なのか?、大理石でよくあんなに高いところまで?と疑問をもって近づいていくと、外壁の多くは彫刻のしやすい砂岩や安山岩、一部に大理石や花崗岩もありますが、イタリアの大聖堂の総大理石造りとはやはり感じが大きく違います。
石の重量の問題や、聖書の物語を外壁に表すための細かな細工など、やはり花崗岩やオール大理石では難しいところがあったのでしょう、風化の割合の早い砂岩を多用し、そしてその隙間には石との相性を考えてセメントも使っています。(但し内部は花崗岩と大理石とステンドグラスで、外観とは全く素材が違います。)
そのせいかどうか、前に建てた尖塔と最近作った尖塔では風化によって色が変わってしまっています。
それもそのはず、このサグラダ・ファミリアは今から130年以上前に建築がスタートし、ここからさらに10年以上かかると言われています。130年前の石の色と今の色が違うのはたとえ同じ採掘場の石でも違って当然でしょうし、初めの砂岩は既に風化が始まりつつあるので合わせようがありません。
長い年月をかけてここまで出来るのは、単に設計者のアントニオ・ガウディの情熱だけでなく、それを支えたバルセロナの市民や関係者がつないだ熱意なのでしょう。
ここまで来たら、完成はゴールでなく、作業し続けて未完成のまま続けることが目標となってもいいのかもしれません。
今回の霊園巡りはスペインの、アルムデナ霊園の視察です。
ここはスペインの首都、マドリッドの市内にある、広大な敷地を有する霊園です。
ヨーロッパで最大と言われ、ショパンやビゼーのお墓があるパリのペール・ラシェーズ墓地と肩を並べるくらいの広さだそうです。
さて、初めにその霊園を訪れて感じたのは、「おとなしい」墓石が多い、「地味」な霊園という感想した。
特に、マドリッドに入る前に数日バルセロナの「派手で」「前進的な」街に居たせいかもしれません。
ご存じのとおり、バルセロナはガウディを先頭に、建築デザインや都市設計で世界に先行し、またピカソ美術館もあって芸術でも奇抜さや先進性を好む地域です。
ところがこのマドリッドの霊園の石は、ほぼ白御影石でうめつくされ、目立つ黒やカラフルな赤、ピンクなどの色はほとんどなく、またイタリアで見られるような大理石も少なく、「単一な」感じです。更には墓石の形もカトリック信者がほとんどと言われるスペインですので、十字架を模したお棺型の墓石でほぼ統一されています。
まさに奇をてらわず、デザインに凝らず、一般的な形を好む、伝統的な生活を送る、クリスチャンの生き方が墓地にも表れているように見えます。
尚、カトリックですので、埋葬方法もまだまだ土葬が多いですが、土地の有効活用のため、今は家族墓として活用されており、土葬のお棺を二重三重に重ねたり、一部は火葬で焼骨を収めていることも増えているようです。
いずれにしても、スペイン=バルセロナ=斬新 という思い込みは全く違っており、マドリッドは少なくとも日本の田舎のように、お墓に関しては伝統と旧守型の、地味な墓石事情を実感してきました。
(残念ながら、斬新的な感覚のあるバルセロナの霊園や墓地は今回見れませんでしたので、街並み同様に「地味な」マドリッドの墓地と比べて、果たしてバルセロナの墓地や墓石が「派手で斬新性が」あるのかどうか、次の機会に調べて来たいと思います。)
エーゲ海にはたくさんの島がありますが、それぞれ特徴もあって、観光客にも人気の島がいくつかあります。
その中でも常に人気1位2位を争う島がサントリーニ島です。
現地では別名で表記されることもあり、ティーラ島(島の中心地フィラからそう呼ばれるそうです)とも言い、地図や飛行機の宛先でちょっと勘違いすることもあって統一してくれるといいのですが、まずますサントリーニ島で通じます。
この島が有名なのはやはり島の形、建物の密集状況、建物の色の統一性、そして夕陽でしょうか。
島の形とは、サントリーニ島とはいくつかの島が総称なのですが、その島々で円形を作っています。円の中心には火山の噴火口のある島があり、円形のうち所々が海の中に沈み、三日月形や勾玉型の陸部分が島として残っており、大陸が海の中に沈んでしまったという昔のアトランティス伝説のモデルになった場所と言われています。
一番イメージしやすいのは火山の噴火口の回りにカルデラ湖として水の下と山の稜線に分かれた形が、海の中に出現してると思うと形がわかると思います。
島の中には紀元前時代の高度な文明を匂わせる遺跡も発見されているそうですので、まるで日本で邪馬台国の論争と同じようにアトランティスのロマンがあふれているのでしょう。
建物の密集状況は写真にあるように、噴火で崩れ落ちた崖上のわずかな高台に街が密集して家を建てていることです。実はこの島にはもっと平地もあり、農地やブドウ園もあります。現地の人に聞くと、観光が盛んになる4,50年前までは、この高台の土地は安く、島の住民の次男三男で家の農地を相続できない人たちが仕事を求めて街に住み着いた。長男は広い農地と低地に家をもらって農業を続けた。でも今はその長男たちの農業はそれほど変わらないが、次男三男の高台地は観光産業や高級ホテルが建ち並び一気に土地が高騰したそうです。
産業構造と土地の価値、世界中どこでも同じ話ですね。
そして色はもちろん、青と白の統一です。
エーゲ海の海の青、そして教会の青のドーム、建物は基本的に白、時に淡いピンク、単純な色使いでもそれが街全体、島全体に統一されると圧倒的な美しさです。
また、サントリーニ島は沈む夕陽が最も美しい場所と言われ、日本の初日の出詣りのように、毎日夕陽詣でで多くの人々が夕陽ポイントで大渋滞します。でも、確かにエーゲ海にゆっくり沈んでいく夕陽は時を忘れ、自然と一体となったような体験でした。
最後に、サントリーニ島の石について。
噴火で火山灰や火山礫が飛んできたでしょうから、海岸や農地には黒い火山岩が多いです。
農地の開墾には大変な思いをしていると思いますが、そのせいもありブドウは良く育つようです。そうなるとワインもよく出来ます。小さなサントリーニ島ですが、いくつかのワイナリーやワイン博物館もあり、島のワインの歴史の勉強とともに、ワインの試飲は、あえて記載しなくてもご想像のとおりです。
アテネからミケーネに行く途中に、ちょうどペロポネソス半島の一番くびれたあたりにコリントスという街があります。
実は知っているようでみんな知らない常識なのですが、このペロポネソス半島というのはほんのわずかな人口海峡を挟んで島になっているのです。
これは19世紀にスエズ運河を開削した人が二匹目のどじょうを狙ってここに運河を作って分断したためです。
写真1でわかるように川幅こそわずかに23メートルしかないものの、崖の高さは最大79メートル、長さは何と6.3キロメートルのコリントス運河によって完全にギリシャ本土とペロポネソス半島(島)を分断しているのです。
時間とお金をかけて完成したものの、スエズ運河ほどにはその利便性や認知度は無いのですが、近年はこの運河を船で渡る観光船が活躍しているようです。
そんなコリントスですが、ミケーネ時代はペロポネソス半島のスパルタやコンリトスとアテネなどの本土を結ぶ中間地点として、流通や貿易、また海運などで大いに栄えた時期があったようです。
写真2は古代コリントスのアポロン神殿で今は近くに博物館が併設されており、街に隣接する急峻な岩山の頂上には街の守り神であるアフロディーテ(ビーナス)の神殿もあります。
紀元前は如何に繁栄していたのか、その石組みの城壁や発掘再現される建物の立派さは容易に当時を思い起こせます。
そしてもう一つ、中学高校時代の聖書の時間(中学高校はミッションスクールで週1回の聖書の時間がありました)で覚えさせられた、キリストの弟子パウロによるコリント人への手紙というものが、ここコリントスが舞台であったことをここで初めて知りました。
使徒パウロはキリストが処刑された後、その教えを広めるためコリントスに滞在し、信者を集めたものの、後にコリント市民が堕落するのを聞いて、それを諭したのがコリント人への手紙1、2ということだったそうです。
そして写真3がパウロがコリントスに滞在しているときにコリント人に教えを授けた広場と言われています。
2000年前の息吹がすぐそこにあるような、タイムマシーンのような石組みの街でした。
すごく古い話で恐縮なのですが、中学校2年生の時に、夏休みの読書感想文の為に読んだのがハインリッヒ・シュリーマンの「古代への情熱」でした。
トロイの木馬 で有名なトロイ(トロイア)の場所を特定し遺跡を発掘したことで有名です。
まだまだ向学心に燃える当時の中学生にとって、ホメロスの叙事詩イリアスを信じて(当時はまるで神話のように架空の話と思っていたとシュリーマンは主張しています)実際にその場所を特定しました。
また、遺跡発掘の資金源を作るために実業家として財を成し、41歳でその事業の収益でその後次々と歴史に残る発見をしたり、二階の屋根裏部屋にこもって各国の言語をそれぞれ6か月程度で習得し、最終的には18か国語を話せたという逸話などを読み、純粋に感動したものでした。
後の余談ですが、大人の世界ではシュリーマンはあまり評価がよろしくなく、武器商売で財産を築いたとか、トロイの発掘ではダイナマイトで地層を破壊し、考古学的には後の検証を不能にした単なる墓荒らしだとか、18か国語の話も誇大妄想癖であるとか、一面では散々な評価もあるようです。
ただ、そのシュリーマンにも確実な成果もあり、二つ目の有名で偉大な発見が、ギリシャ西部のミケーネ遺跡の発見です。
世に言うアガメムノン王の治めた地であり、当時のギリシャきっての強国です。
そのトロイ戦争ではギリシャ連合軍の総大将を務めたアガメムノンの王国です。
こちらも長い間、その存在は信じられていても場所が特定できず、たくさんの人がその発見を競っていたようです。
シュリーマンも何度か別なところを掘って、失敗も多くしたようですが、最終的にはペロポネソス半島内の中ほど、田園地区の小さな丘が並ぶうちの両側が崖で守られ、後ろが細い尾根で奥の山脈に続いている一つの丘陵に眼を付け、そこを掘ったところアガメムノン王のマスクと言われる黄金や宝石が王家の墓とともに発見されました。
そこはまさに攻めるには難しく、守るにはたやすい好立地であり、また当時の主要な産業である農産物生産の中心地、貴金属や鉄なども取れた場所なのでしょう。
昔の一大中心地であったことが垣間見られます。
王域の周りは巨大な石垣で囲われており、その入り口となるのが獅子門と言われる、いまだに天井石が3メートルの枠石の上にどうやって載せたか謎の三方が石で出来た門です。もっとも床も石で出来ていますから四方が石で出来ている中を通り過ぎてその中に入るのは当時としては驚きだったと思います。
王家の墓は三重の柵でまわっていて、遺骨を囲んだ小さめの柵の周りに、日本の古墳ほどもある大きな外の柵が二重に、まるで外溝のように石が並べられてありました。
二番目の柵の中は、その上に土をかぶせて埋めてしまうのも何か日本の古墳に似ているように思います。
説明ではその外周の回りを警護の兵士が四六時中警備していたという話です。
土で埋めた上には割と小さな石の墓標があったらしく、最後の写真は別な場所にある王の家族の墓の実際の墓標です。
紀元前1500年或いは紀元前1300年代の話で、今から3500年前のお墓の中と、墓標とよくもまあ残っているものです。
いつも思いますが、これが金属や有機物では今に伝えることができないですが、石だからこそ その古代のロマンが伝わり 古代への情熱となっていくのでしょう。
ギリシャきっての繁栄を極めたミケーネもアガメムノン王の死後、中継貿易で栄えたコリントスに覇権を奪われ、そしてさらには都市国家のアテネに移ろい、いつしか忘れ去られてシュリーマンが見つけるまでの長い年月、静かに眠っていたのでしょうか。
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