社長コラム 石のことば
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2025/04/01
第237回 「著名人のお墓2」

 著名人のお墓第2弾です。

 前回は3枚目の写真について回答無いままでおしまいにしました。

 「中濱萬次郎」で分かったでしょうか?

 個人的にはすごく興味があり、劇的な一生を送った賢人だと思っています。

 俗称の「ジョン万次郎」と言えば理解が早いかもしれません。

 簡単にジョン万次郎の生涯を記載します。

・土佐の中浜(今の高知県土佐清水市)の漁師の次男として生まれ、14歳の時に遭難し無人島「鳥島」に漂着

・アメリカの捕鯨船に助けられるも鎖国中の日本に戻れず仲間はハワイ島に降ろされるが、万次郎の聡明さや気が利くことに感心した船長が養子としてアメリカ本国に連れ帰る

・マサチューセッツ州フェアヘーブンでバートレット校で高等数学、測量術、航海術など学び首席で卒業したと言われている

・ゴールドラッシュで湧くカリフォルニアで資金をためてハワイにいる漂流仲間を助け琉球経由で長崎に戻る

・生まれ故郷の土佐藩では、藩校の教授となりアメリカの実情を教授し、坂本龍馬や後藤象二郎、三菱を創立した岩崎弥太郎などに影響を与えた

・その後幕府に招聘され、日本人初の太平洋横断の咸臨丸に軍艦教授所の教授として乗船

・客として乗ったアメリカ海軍のブルック海軍大尉に記録でも、「艦長の勝海舟は船酔いで艦長室から出てもこず、日本人の中で操船や物事が出来るのはジョン万次郎くらいなものと言われる

・明治維新後にヨーロッパに使節団として派遣され、ニューヨーク経由で帰国する時に養父であり恩人のホイットフィールド船長に再会を果たす

・アメリカと日本の懸け橋となり、日本の幕末に大きな影響を与え、決して有名ではないが大きな功績を残した賢人

と、ざっと生涯を見てみました。

 そんな歴史があの墓石に詰まっていました。


 今回は雑司ヶ谷霊園から日暮里駅前の谷中霊連園に移動します。

 ここは都営霊園と寛永寺や天王寺などの寺院墓地が複雑に絡み合って一体化した広大な墓地公園になっています。

 墓域の大きさも時間もバラバラでぶらぶら歩いていると迷子になりそうです。

 今回の最初の写真はどなたかの一族の墓地と思いますが、中央正面には壮大な五輪塔が建っています。

 五輪塔というのは古いお墓の形で、特にこの五輪塔は昔のスタイルで建てられています。

 インドの五大思想をもとに作られてお墓の下から地・水・火・風・空の5つが石の部材となって重なっています。

 それぞれの石には梵字で下から「ア・ヴァ・ラ・カ・キャ」と読んで意味は上記と同じく「地・水・火・風・空」の事です。

 なかなか味のある一族の墓所でした。

 二枚目の写真は鳩山一郎・妻薫の墓です。

 第52代、53代、54代の総理大臣で息子は鳩山威一郎、孫は鳩山由紀夫第93代総理大臣です。

 ここも、この敷地には鳩山家の歴代の夫婦墓が並んでいますが、きわめて普通の形で普通の大きさでした。
 
 鳩山由紀夫氏もこの墓地が終の棲家となるのでしょうか?


 最後の写真は、地続きの寛永寺墓地の中の徳川慶喜のお墓です。

 この人の一生とその歴史的役割を語るのは、司馬遼太郎の「最後の将軍」という小説に譲りますが、明治維新のスタートとなった大政奉還は発案者の坂本龍馬と実行者の徳川慶喜の共同作業(二人は会ったことも無く、慶喜は坂本龍馬の名前も知らなかったが)によるもので、慶喜が大政奉還をしたと聞いた龍馬は敵である慶喜の為に「公よくも断じ給えるものかな、我、誓ってこの公のために一命を捨てん」と声を震わせて言ったとあります。

 慶喜は徳川幕府を潰した将軍ですが、日本を外敵から守った英傑であるという見方もあります。

 この最後の将軍の墓所に向かって思わず手を合わせて冥福を祈りました。

 

2025/03/05
第236回 「著名人のお墓」

  一般の方に暇な時に墓地を散策する趣味?があるよと言ったらきっと変な人と思われるでしょうね。

 別に石屋だから仕事半分興味半分で行ってるのは間違いないのですが、もう少し別な楽しみ?があるからこそ墓地巡りは意外に楽しいのではないかと思います。

 それは、歴史の中に入っていける。
教科書でしか知らなかった人物の実在したという実感に触れられる。
まるでタイムマシンでその人物の生きた時代(実際にはお墓なので亡くなってから入っているのだが)にトリップしているような気分になれる、まさに歴史好きにはたまらない楽しみなのではと思います。

 墓マイラー(お墓参りの人)という業界用語もありますが、私も墓マイラーと自認しています。

 さて、歴史上無名の故人にもその方の一生の記録があるのですが、著名人にはその歴史的役割とその生涯を後世という神の視座から眺められる我われにとっては、有名人の眠る霊園程奥深く楽しいものとなります。

 東京では前回紹介した青山墓地の他に池袋の雑司ヶ谷霊園、日暮里の谷中霊園、巣鴨の染井霊園など都営の各霊園で散歩がてら霊園内を回ってみるのも良いかと思います。


 今回は雑司ヶ谷霊園の中のお墓について話しましょう。

 
 ここで最も有名なのは夏目漱石のお墓でしょう。

 実に大きな本体でまるで位牌のようにも見え、或いは巨大な表札のようにも見え、当時としては奇抜なデザインだっと思います。

 これは知人の建築家が漱石が愛用した椅子の形を模して作ったもののようで、石材は茨城県産の稲田石を使用しています。

 とにかく大きくてどこからでも目につきますが、その正面にも戒名で「文献院古道漱石居士」と彫られ漱石の文字がそのまま見えるので誰でも見つけやすいお墓です。
 正面の左には奥さんの夏目鏡子の戒名が同じ文字数で並んでいます。

 実は漱石は自分の作品にこの雑司ヶ谷墓地の事を詳しく書いてあります。

 夏目漱石三部作の最大傑作と言われる「こころ」に先生と私との会話で2ページに亘るくらいの詳細な話が載っています。
 (学生時代に習った夏目漱石前期三部作=三四郎・それから・門、後期三部作=彼岸過迄、行人、こころでしたね。思い出しました。)

 まさか自分が「こころ」でお墓の文字や形について先生と話した事を書いたその後、執筆していた「明暗」が絶筆となり、その本人がこの雑司ヶ谷墓地に埋葬されるとは思っていなかったのかもしれません。

 とにかく日本の近代文学の巨星にふさわしい巨大なお墓です。


 次は竹久夢二のお墓です。

 こちらは本当に小さくて見過ごしてしまいそうなお墓です。

 写真は「竹久夢二を埋む」とあり、その後ろに竹久家累代の墓というのがあるので、夢二の分だけ同じ敷地の中で記念碑的に建てたものと思われます。

 竹久夢二についてはあの女性人物図や詩集の雰囲気から純真無垢な作家のイメージがあったのですが、大人になってからいろいろ見聞きするとなかなか一筋縄ではいかない、後世からも好き嫌いの激しい作家なのだという事を最近知りました。

 このお墓の形状は表面だけ平らにした自然石風の形状で、石の材質も(ひょっとしたら安山岩の伊達冠石みたいなもの?)と思ったりしましたが、正面の磨き上げた石面を観るとおそらく濃い手の花崗岩のように見えました。

 こちらも竹久夢二の人物の評価と同じく、安山岩なのか花崗岩なのか玄武岩なのかよく分からない評価の難しい石を使って、夢二のお墓にはぴったりかもしれません。

 
 最後のお墓は下台に中濱氏とあります。


 正面の棹石には中濱萬次郎之墓とあります。

 さて歴史上知っている人で誰のお墓でしょうか?

 今回は説明入れずに読者の皆さんへの問題として、これで終わりにします。

 ちょっとヒントは高知県の人です。


 
 今回はここまでです。


 

 

2025/02/15
第235回 「シチリア島 石紀行追記」

 イタリア・シチリア島 石紀行は前回で終了する予定でした。
が、読者から予想外な高評価(シチリアがあまり一般に知られていないからか)を頂きまして、御礼のつもりでもう一話だけ追加させていただきます。

 島なのに今までは山(エトナ山)とか神殿とか内部の床とか、島らしくない紹介しかしてきませんでした。

 イタリアは地中海のほぼ中央に浮かぶ半島国家です。
イタリアと同じように地中海に突き出た地形は今回のもう一つの主役ギリシャの半島です。
でもその二つよりも更に地中海の真ん中に(以前のコラムに「地中海の十字路」と書きましたが)本当に地中海のセンターの位置にシチリア島があります。

 つまり周りは全て海、地中海に囲まれた立地であることを再認識した事を紹介します。

 写真1はタオルミーナの丘の上(ギリシャ劇場がある)から見た湾内に浮かぶ豪華客船の係留の写真です。
 地中海クルーズの行き先としてシチリア島は大人気で、タオルミーナだけでなくカターニャやパレルモ、シラクーザなどシチリア島各地に豪華客船の寄港地があって、当然ですが寄港した数日はとてつもない混雑に陥ります。
 ここタオルミーナのように水深の浅い寄港地では沖なかに停泊し、テンダーボートと呼ばれる小型ボートで着岸上陸します。
 この日も大勢の観光客が上陸してきていました。

 写真2ですが、周りが全て海ですから朝日も見えますし、違う場所からは夕陽も見えます。
 この写真はタオルミーナから撮れた最高の瞬間でしたが、さてこれは朝日でしょうか?夕陽でしょうか?
 読者の皆さんへのクイズとしておきましょう。

 写真3は、凄い瞬間の凄いブルーです。
 イタリア本土のナポリから船で1時間程のところにあるカプリ島と言うのが「青の洞窟」の本場ですが、外洋に面していて波が荒いせいもありなかなか実際に見るにはタイミングが難しく私も見れなかった経験があります。
 同じ海で同じ気候で、条件も近いことからこちらは「タオルミーナの青の洞窟」と呼ばれるところです。
 こちらは90%以上の確率でこの風景を見る事が出来ます。
ちなみにカプリ島の「青の洞窟」は平均的には50%以下の確率でしか見る事が出来ません。

 今回の追加の紀行文は「石」に関することを準備していませんでしたが、海、地中海、太陽、青のテーマで代理させてもらいました。

 

2025/01/25
第234回 「シチリア島 石紀行5」

 シチリア島の紀行もこれで最後となります。

 最後の場所はシチリア島第2の都市カターニア、そして近隣のタオルミーナです。

イタリア半島がブーツの形とすれば、シチリア島はその爪先に三角おむすびが転がっているような形ですが、そのカターニャやタオルミーナは爪先に一番近い三角の角で反対側の一番遠い角がパレルモです。
 ちなみに最初の凝灰岩の神殿のあるアグリジェントはアフリカ沿岸に近い下の三角の角の近く?になります。

 こちらからの風景は今までとは多少違います。

 一番大きい差は山が見える事です。

 日本に居ても静岡や山梨、神奈川に行くとどうしても風景の中に富士山を探してしまいますが、ここイタリア半島側のカターニャではイタリア最高峰の火山であるエトナ山の姿を空の風景からやっぱり探してしまっています。

 実はこのエトナ山、富士山とそっくりなのです。
もちろん単独峰でその稜線の綺麗さもさることながら、その標高も3,326mと近く、冠雪した姿はシチリア富士と呼んでも間違いでは無いです。
(シチリアの人からすれば日本Etna山でしょうが、、、)

 ただ富士山と違う点が一つ。
エトナ山は今でも噴火しており、常にどこかしらから噴煙を出しています。

 シチリア一の観光地であるタオルミーナから見た夕暮れのエトナ山も噴煙を棚引かせた姿で幻想的なスナップショットとなりました。

 円形競技場はイタリアではよく見かける風景ですが、このタオルミーナの劇場はギリシャ劇場と呼ばれこのエトナ山を背景に歌劇やコンサートを行った場所になります。

 とにかく絶景地にあります。

 山も見えますが下には青に輝く地中海が広がり、ここから劇を観たら三流芝居でも一流の出し物に見えるでしょうね。

 ちょうど舞台真ん中の後ろの柱が第二次世界大戦で爆撃を受けて崩壊した部分もありますが、それ以外はそのまま保存し、そして今でも劇場としてオペラやコンサートの会場として利用しています。

 この劇場は名前の通り始めはギリシャ人が作ったと思われます。

 そしてその素材も今までのコラムの通り、大理石や石灰岩でなくこちらも凝灰岩のようです。(一部は後世レンガとセメントで補修回収された部分もあります)

 こちらの劇場は柱だけでなくステージや観客席迄が当時の石造りで、2,500年を超える現代人のコンサート会場として使用が継続されているって、、、本当にすごい事ですね。

 残念ながら訪問中はこの劇場での催しは開演されませんでしたが、この空と海と山と、そして青と碧と白の織りなす舞台装置は、どんな演題も3割増しで心に響いてくるのでしょうね。




 

2024/12/29
第233回 「シチリア島 石紀行4」

 シチリア島の第4弾です。

 今回はシチリアの内陸部で、今までの観光地にもまして日本人の観光客が少ない,
認知度的にもほとんど知られていないアルメリーナ郊外のカザーレの別荘という名所です。

 ここは、比較的新しく観光地化した場所です。

 でも実際には紀元3世紀に古代ローマ帝国の貴族の別荘としてあったもので、その後のローマ帝国滅亡や地震、そして大雨による洪水などで永い間土砂に埋まって人々から忘れられていたものを1927年に発掘が開始され、その後どんどん掘り起こされて歴史の証人となって現代にあらわれたものです。
 
 一人の貴族の別荘としては壮大過ぎるほどで総面積は3,500平方メートル、部屋数は60室以上あります。
 それらの部屋それぞれの床に大理石のモザイクが敷き詰められていました。

 その床のモザイクのおかげで当時のローマ時代の風習や社会の様子が分かり、近年こちらも世界遺産に登録されています。

 似たような遺跡に同じくイタリアのポンペイの遺跡がありますが、そちらは街全体の再発見で浴場や居酒屋などの生活様式が分かると騒がれますが、ここのようなモザイクのある家はほんの数軒です。
(それでもアレキサンダー大王の戦いのモザイクなど教科書に載るほどのモザイクが見つかっています。)
 
 ところがこちらのモザイクは全ての部屋の床に、そして外部の中庭の床にも、回廊の床にも石のモザイクが施され、そしてその題材が世界との貿易だったり、当時の動植物だったり、そしてその風習だったりと、現代人の意識を当時の風景までタイムスリップさせてくれる詳細さがあります。

 大広間の床には、戦いのモザイクにより武器や装束、馬車や相手の人種等まるで映画のワンシーンのように映し出されています。

 また、回廊には色鮮やかな動物の絵が、今でもどの種類の大理石を砕いて作ったのか石そのものの色合いも時空を超えて伝えてくれます。

 最後の写真は現代人がビキニシスターズと呼んでいるモザイクです。

 こちらは女子オリンピックの普及、又はスポーツ競技の女性への浸透が進んでいた証として伝えています。

 石で作ったから、モザイクで絵にしたからこそ1,600年前の世界を見せてくれているのだと思います。

 ここモザイクの別荘と云い、ポンペイの遺跡と云い、神殿遺跡と云い石材は時間を超えて生きてきた証や人々の意志・感情までも後世に伝える最高のタイムカプセルなのですね。

 シチリア島の内陸の奥深い林の中で改めて石の魅力と役割を感じる事が出来ました。
 

2024/12/07
第232回 「シチリア島 石紀行3」

 シチリア島の第3弾です。

 シチリア島は州都がパレルモとなっており人口は66万人だそうです。
イタリアの国の中ではこれでもローマやミラノなどの巨大都市を含めても人口順位で第5位の大きい街ですが、日本での知名度や日本人で訪れている人の少なさはその文化の複雑さも影響あるのでしょうか?

 ローマを譬えにするまでもなく、イタリアの都市はローマらしさ、フィレンツェらしさ、ベネチアらしさがそのままその街の魅力です。
 長い歴史とその重みも街の魅力につながって現地に行きたくなるのが観光地です。

 ところがここパレルモもシチリア島自体もそのらしさが分かり難く、連綿と続いた歴史というものが表に出ない、複雑な地域なのです。

 前々回のアグリジェントの項でも書きましたが、歴史が複雑で理解が難しいです。

 簡単に説明すると、初めは古代ギリシャ人がやってきて街を作りました。
その後、フェニキア人、古代ローマ人、ビザンチン帝国と支配者が変わり、9世紀には北アフリカからイスラム勢力が侵攻しパレルモはイスラム国家の首都になりました。

 それだけ地中海文明の中の要衝の地を占めており、温暖な気候と肥沃な土壌は交易にも定住にも適した場所で「シチリア島は地中海の十字路」とも呼ばれたところでした。

 またその後は11世紀にノルマン人、近代にはフランスやスペインにも領有され、文化と人種の融合地がこのシチリア島だったようです。

 それで、イタリア人やヨーロッパ人にも異国情緒を感じるエキゾチックでカオスのようなシチリアは観光地としても超有名ですが、日本人の我われからすればもっと単純ならしさを求めてしまいその複雑さを嫌ったものでしょう。

 また、商業的にも大きな産業や地域の特産も少なく、日本人の商社や貿易相手としてのシチリアが後れを取ったのも、シチリアが観光地として日本に定着しなかった理由かもしれません。
 
 更には、『ゴッドファーザー』の映画でシチリアンマフィアの抗争を刺激的に描いたことも一つの遠因かもしれません。
 (シチリアの名誉の為に追記しておきますが、今回の滞在中にそのような危険な世情や風聞に出合う事は全くありませんでした。また人も朗らかで親切だったことを付け加えておきます。)


 さてここでパレルモの中にあるパラティーナ礼拝堂を見てみましょう。

 ローマのヴァチカンやフィレンツェのドゥオーモのイメージとは全く違う、まるでトルコの寺院の内部のような、或いは中庭はイスラムのモスクのような雰囲気を漂わせています。

 建築や教会の歴史に詳しい人からすればバラバラの外国文化が重なり合った摩訶不思議さという現象のようです。

 天井はイスラム方式、床や壁はビザンチン方式、アーチを支える柱はローマ時代の遺跡を活用したそうです。

 この教会はもともと1,100年当時王様の個人使用の礼拝堂として建設されたもので、王宮の中の2階に同居しています。

 それほど大きくはないのですが、当時の王室の豊かさなのか金のモザイクで本当に豪華絢爛、秀吉の黄金の茶室同様眩いばかりの圧倒さです。

 床や壁には実際の大理石も使用してますが、金の部分は或いは箔だったり、メッキだったり、部材としての採用よりも荘厳な様子を「色=黄金」で表すための金の使用だったのでしょう。

 それにしても、黄金の迫力はどんな希少な石の使用にも一切モノを言わせぬ威力があるのですね。

 モザイクに使用されたグリーンの希少な大理石やブルーの花崗岩など石屋にとっては「良いもの使ってるな」ですが、「黄金」の引き立て役にさえなっていないのではないかと感じてきました。



 

2024/11/17
第231回 「シチリア島 石紀行2」

 イタリア・シチリア島・アグリジェントの話の続きです。

 前回のコラムで凝灰岩使用の驚きを記載しましたが、石の特徴としてメリットもあります。
一番は軟らかくて加工がしやすいという事です。
そして密度が粗いため比重が小さく1.5程度です。
(トラバーチンなど石灰岩は2.3程度、大理石は2.7前後、花崗岩は2.7~3.0程度で、つまり同じ大きさでも石灰岩からは7割程度、大理石からは半分程度の重量しかないという事です)

 それらの利点でこの石を活用したものと思いますが、それでも水の1.5倍の重さですから採掘や運搬にはいろんな工夫もありました。

 神殿が建っている敷地の中に石を運んだと思われる遺跡も出てきました。

 側溝の真ん中に石を乗せるモノレールがあり、その両側にたとえば車輪?のようなものを走らせてその石を支えながら移動させる運搬道路を作って作業効率を高めていたのでしょうか。

 或いはその溝に水を流したものかもしれないし、ピラミッドのように梃子やコロを使ったのかもしれません。
 この溝の使い方の説明を聞くのを忘れましたが、いずれの方法にしろ今でいう自動搬送のような省力化、効率化のイノベーションだったのでしょう。

 
 また、効率だけでなく芸術や遊び心のある人々だったか、或いは信仰心の篤いせいなのか、神殿の中の梁を支える支柱の代わりに、人型を象った巨人の石造をヒト型のまま縦に並べてその上に回廊の梁を乗せた石が見つかりました。
 それをモックアップしたものが現地に飾られていますが、もちろんこれも同じ凝灰岩です。
 まるで達磨落としのピースのように重ねていますが、もとは一個一個中に穴をあけて腐れ難いレバノン杉をジョイントとしてつないで崩れないように立っていたようです。
 大きさに驚かされただけでなく、当時の参拝者からは畏敬の想いで眺められたのでしょう。
まるでギリシャ神話の一場面を見るようです。


 最後の凝灰岩の壁の写真ですが、こちらは軟らかくて彫り易い石の特徴を利用して大きな祠を何個も作ってあります。
 このようなものは日本の凝灰岩地域にも多くあって、平安時代から鎌倉、室町期に特に行者や修行僧がそこで瞑想にふけった場所とか寝泊まりしたとかの場所になっていました。
 こちらの石祠の使用時代はギリシャ時代でも、ローマ時代でもなく、それより後のビザンチン時代の事で、その用途はお墓として使われていたと説明がありました​。
 日本で言うとお墓は土に還す場所としての意味があるので、この祠に遺体を置いても土には還らないのでは?と思いましたが、ここは風葬とか鳥葬とかつまり自然に遺体を風化させてしまう場所だったのでしょうか。
 或いはお棺を収めてそのまま故人の安住の場所とすべく考えたのでしょうか?
こちらも時間が無く詳しい説明を聞く事が出来ませんでした。

 いずれにしても、オリーブとアーモンドの育つ大地の中に突然湧き上がった凝灰岩の隆起を生活の中に、また神殿や巨大建造物に、そして最後はお墓に活用したシチリア島の世界遺産を大きな感激と驚きで見る事が出来ました。



 

2024/10/31
第230回 「シチリア島 石紀行1」

 今まで石の仕事でいろんな所を訪問させてもらいました。

 距離の関係からもアジアは一番多く、石の産地の中国、韓国、ベトナム、インドなどは頻繁でしたが、遠くヨーロッパも特に大理石では世界的にも有数のエリアである、イタリア、スペイン、ポルトガル、ギリシャなど仕入や検品でよく行きました。

 特にヨーロッパの中では大理石の宝庫であるイタリアにはかなり行っており、エリア的にもほとんど網羅っしているような気がしていました。

 でも実際にはイタリアの地図をブーツの形で言うと爪先の前にある島シチリア島は今までに行くことがありませんでした。

 首都パレルモの南西部に大理石産地があり、日本にも数種類のシチリア産大理石が入ってきていましたが、品質に汎用性が少なく使う業者もある特定のゼネコン(フジタなど)と特定の設計士が指定する程度でなかなかメジャーな石で無かったこともあり、イタリアでもシチリア島には接点が少なかったと思います。

 イタリア半島のもう一つの島サルディニア島は、こちらは実は大理石でなく花崗岩の著名な産地で日本でもサルディニア・ホワイト(別名ルナ・パール)やサルディニア・ピンクと言った中国から安価な花崗岩が出るまでは圧倒的に日本市場を席巻した建築用の花崗岩がここサルディニア島の産出だったので、実際には採掘現地である島の丁場までは行かなくとも写真や会社取引でとても身近だったことから、唯一シチリア島だけが私にとっての未踏・未自覚の地域となっていました。

 
 話は変わって世界遺産登録というトレンドがあります。
 昔は別にそれで訪れるという事も無かったのですが、世界中で世界遺産に登録されたというと見てみたい、行ってみたいという人が増えて各国各地で世界遺産認定登録を狙っているのが観光地の主流になっています。

 世界遺産の数では国別で世界第1位が何とイタリアで全部で59件(箇所)あります。
 ランキングでは2位が中国で57件、3位がフランス、ドイツの同数52件と続きます。
ちなみに日本は世界第11位で25件だそうです。

 イタリアはローマを中心に世界遺産が全土に存在しますが、このシチリア島も多く、シチリア州には7件の世界遺産があるとの事でした。

 
 トレンドに乗ったわけでも、ミーハーなわけでもないのですが、今回移動の途中(実際には大きく回り道でしたが)シチリア島南部の世界遺産アグリジェントの神殿の谷を見てきました。

 ここはイタリアと言うよりも何かギリシャを思わせる景観です。

 具体的には次回のお話としますが、この神殿の谷と言われる狭いエリアに7つの石造の神殿遺跡が密集しています。

 そしてそれらはローマ時代よりも古く、紀元前5世紀のものであり、ギリシャ人により建てられたものです。


 何より石屋の私を驚かせたのは、白大理石を使ったギリシャアテネのパルテノン神殿や石灰岩(トラバーチン)を使ったバチカンの大聖堂など、少なくとも大理石、石灰岩、場合によってはもっと硬い石を使って作ったからこそ現在まで残ってきたものと考えていました。

 ところがところが、この紀元前5世紀に建てた神殿の材料は、凝灰岩です。

 ここのところ数回当コラムにて凝灰岩については記載してきましたが、当社の創業の石であり、松島湾を形造っている石であり、軟らかくて風化が早く、中の空気層が多くて水や空気の浸潤により永い年月の使用には適さない、、、、

 それがここでは2,500年もそのまま建ち続けている。

ここで代替の石が無かったとしても、凝灰岩がこんなに残っているのにびっくり仰天です。

 
 赤茶けた模様の無い土色の石がこの地の凝灰岩ですが、さすがに白い大理石で作った経験のあるギリシャ人は、形は同じように凝灰岩で作った上で故郷の風景を思い出して、白い顔料を塗ってまるで白大理石の神殿のように見せていたのでしょう。

 現地の解説で白ペンキが残ったままの柱の説明を受けて、自分の目の前に当時の神殿の眩いばかりの白い神殿の映像が浮かんでくるのを否めませんでした。


 

 

2024/10/04
第229回 「豊国廟・豊国神社・方広寺」

 前回号で紹介した豊臣秀吉の本当のお墓である豊国廟ですが、今でも訪れる観光客は非常に稀で、京都駅からそれほど遠くないにもかかわらず乗ったタクシーの運転手さんが、
「はて、豊国廟?どこでしたかね。」
「今まで20年、運転手やっていますが行ったことが無くて、、、、」
と、そんな状況です。

 実際には京都駅から程近く、三十三間堂や智積院という観光名所から直ぐ近くです。
敷地は京都女子大のキャンパスと隣接しており、女子大に通う学生は皆そこで曲がりますが、そのまま真っすぐに行くと山門があり、小さな受付があります。

 豊国廟の管理者が豊国神社社務所となっており、お墓の管理は神社が行っています。
そこの管理の方はお一人で土木作業の格好をされて周辺の作業をされておりました。

 489段の階段から先は拝観料100円(京都ではビックリするくらいの安さ)をお支払いして見学しますが、その方が秀吉公のお墓を見た後、右の奥に行って景色を見てください、他では見れない景色が広がりますと言われました。

 
 頂上で巨大な五輪塔(再建された秀吉のお墓)を汗だくで見た後、言われたまま右奥に行くとそこは京都でも1,2位の観光地、清水寺の全貌です。

 清水寺を上から、そして正面から見れるのは実はここしかないです、隠れた絶景ポイントですと管理の方が言っていた通りで、清水の舞台とそこに集まる観光客の群れが壮大な絵画のように一望できます。

 知る人ぞ知る?(地元のタクシー運転手さんも知らなかったので、知る人しか知らない?)絶景で、山頂を通る風にしばし階段を上った汗を乾かしながら見とれてしまいました。


 階段を下りて又戻ってきたら、先程の土木作業の格好の方は作務衣に着替えてにこやかに話しかけてきました。
 「この奥には秀吉の子、秀頼公の子供の國松公(秀吉の孫)のお墓も再建されてあります、ご覧になってください」
 「少し離れていますが、豊国神社もご覧になると面白いですよ」
まさに、一日数組?の参詣客だからこそ会話してくれる社務所の方と思いました。

 勧められたからでは無いですが、秀吉つながりで京都国立博物館の並びにある豊国神社も回りました。

 秀吉の座像が正面で迎えてくれましたが、これも徳川時代には無かったもので幕府崩壊後の明治期の物でしょう。

 
 ここで驚いたのはこの敷地は旧方広寺大仏殿跡地で「方広寺」と言えばかの有名な家康が秀頼達にいちゃもんを付けて大阪冬の陣夏の陣のきっかけとなった方広寺鐘銘事件の方広寺という事です。

 「国家安康」「君臣豊楽」の8文字が家康を分断し、豊臣を君主として楽しむ と言うのがけしからんという事で まるで悪代官のこじつけから豊臣氏が滅んだその歴史的な事物そのものです。

 何とその鐘のレプリカが隣の方広寺(旧方広寺とは規模が十数分の一の敷地)境内に、家康のこじつけを後世に糺すように吊るしてありました。

 その8文字の箇所は白く文字を浮き出しており、歴史好きの観光客は皆その文字を拡大して写真に収めていました。

 その後、旧方広寺の広さを、おそらく現方広寺敷地⁺現豊国神社敷地⁺現京都国立博物館敷地までが同じ外構の石垣であることから、自分勝手に想像し豊臣時代の方広寺大仏殿がそのまま建てられて残っていたら、奈良の大仏、鎌倉の大仏と合わせて京の大仏として残っていたのかもしれません。

 歴史に「もし」は無いですが、残された石垣に「想像」は広がりました。

 

2024/09/24
第228回 「秀吉のお墓」

  歴史上の人物のお墓ってその由来や縁起もさることながら、本物かどうか、そこに本当に遺体、遺骨を納めているのかなど真偽のほどが良くわからないものもあります。

 戦国時代の三武将、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康のお墓もはっきりしないところがあります。

 織田信長は本能寺の変で明智光秀の謀反により自害しその遺体を探し回ったが見つからなかったと言われているだけに、本当に遺骨を埋めたお墓は無いと思われるのですが、近侍していた僧がその首級を持ち帰って納めた信長の墓がこちらにあるとか、実は生き延びて別なところに墓を作ったとか有名なだけにいろんな偽説?もまかり通ります。

 徳川家康は最期は隠居城だった駿府城で亡くなった後、本人の遺命で静岡の久能山に葬られました。
 2代将軍秀忠が久能山に東照宮を建てていますので、ここに遺骨があったのは間違いありません。
 ただし、3代将軍の家光が有名な日光東照宮を建てて、奥宮には巨大な家康の墓があることから、久能山から移設(今でいうお墓の移転)したのか、分骨(久能山から一部移動)したのか、今となっては掘り返さないとわからないそうです。

 さて、豊臣秀吉の場合はどうか。
秀吉は権勢絶頂の時、伏見城で亡くなります。
ただし、後継ぎ(豊臣秀頼)も幼く、側近(石田三成など五奉行衆)の力が弱く、その死を半ば隠すように京都阿弥陀ケ峯に埋葬されました。
当初その山麓には豊国社という神社が創建され、正一位豊国大明神という称号で神として祀らわれました。

 しかしながらその後関ヶ原の戦い、大阪冬の陣、夏の陣を経て豊臣家が滅亡すると、徳川幕府の命令で豊国社は廃祀され、山頂の阿弥陀ケ峯のお墓も壊されてお参りする人も途絶えました。

 幕末に徳川幕府が倒れ、明治の代になってその豊国社が再建されて再び脚光を浴びることになりました。

 そして山頂のお墓の有った場所を掘り返したところ甕棺に入った秀吉の遺骨が見つかり、その遺体の向いていた方向まで特定できたとのこと。

 その骨はすぐに埋め戻されて今はその真偽を知る術もないですが、上記の再建された豊国社が中心となって明治31年に遺骨の埋まっていたところに五輪塔を建てたものだそうです。

 
 しかし、最近の私のコラムは階段関係が多いと感じますが、ここも下から一直線で489段の急な階段を上り、その先には想像を絶する大きな御影石の五輪塔。

 下台からの高さが3丈1尺(10メートル)に及び、ざっと目算でも本体の重量は20トン以上、外柵や灯篭などの付属品も入れると50トン以上の石をどうやってこの山頂に運んだのだろうかと不思議感が一般です。

 間近で見る秀吉の墓(明治の再建だが)は形こそ大きいものの、文字はほとんど彫っておらず、お墓も墓前灯篭も豊臣家の家紋の五七の桐だけが訪れる人を待っているだけでした。

 

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