社長コラム 石のことば
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2021/04/11
第187回 「趣味は何ですか」

「趣味は何ですか?」 

人と会って話していると、時としてこのような質問を受けたり、逆にこちらから聞いていたりすることがあります。

 でも改めて返事をするのはその都度同じ答えで無かったりもします。

「特に趣味と言えるものは無いですね。」
「ウォーキングや軽登山、いわゆるトレッキングにはまっています。」
「まあ、飲むのが好きなのですが、特にワインに凝っています。」
「旅行が好きで日本全国行っていない県はもう無くなりました。」
「読書が好きで特に歴史モノや経済モノはよく読んでいます。」
「休みの日は家で借りてきたDVD(今や古いでしょうが)を連続で観るのが好きです。」
「季節によって太ったり痩せたり、いわばダイエットが趣味かなぁ?」

などなど、果たしてそれらは「趣味」なのかどうか。

 いつ、どこででも絶対に気になって関心があることが本当の「趣味事」だとするなら、上記以上に私の場合は「石」ではないだろうかとも考えます。
 このコラム「石のことば」を書かなくていけないからかもしれませんし、仕事人間だからかもしれませんが、ついついこの石は○○石、産地は○○国、この石碑に彫られているのはいつの時代、どんな人の生きた記録か、など何処に行っても歩いていても石を目にすると考えてしまうのは、「趣味」と言っていいのか、「病気」と呼んでいいのか。

 でも気になるのは、やむを得ないですよね。

 ただ最初にあげたいくつかの「趣味の答え」ですが、やはりそれらもすべて私にとっては大事な瞬間瞬間です。

「ワイン」は食と共に身体に活力と満足を与えてくれます。

「トレッキング」は老いた身体の体力維持や筋力アップをはかってくれます。

「旅行」は新しい発見と自身の世界を広めてくれます。

そして「読書」や「映画」鑑賞は考え方の筋道を正し、頭の中のヒントを気付かせてくれます。

 とまぁ、勝手に自分の好きなことを「趣味」と無理やり結び付けて、自分なりに納得しています。


 

2021/03/28
第186回 「青葉城址」

 仙台のお城と言えばだれもが青葉城と答えるかと思いますが、実は今の常識で言うお城=天守閣のある建物は無く、本丸は平屋建ての御殿があるだけでした。

 その本丸御殿も明治維新で仙台藩が賊軍になったことから明治新政府から解体の命が出て撤去してしまいました。

 青葉城のイメージとして大手門前の隅櫓の写真が良く使われますがこちらは第二次世界大戦の仙台空襲で焼失したものを昭和42年に再建されたものです。
 しかしそれも令和になってから現存していたものと違うという史実から今後15年かけて大手門と隅櫓を再建することになったようです。

つまり政宗時代から続く建物は一切なく、基本的に江戸時代から続いて継承されたものは石垣だけです。

 こちらの写真は本丸御殿前の最も重要な石垣ですが、高さがなんと17メートル、傾斜角度は70度という事で、勿論ここを登って攻めることは不可能であるばかりかこれを作るのもかなりの難易度だったと思います。

 しかし実はこちらも歴代の藩主がその都度修繕、改築してきたことが近年分かりました。

 というのも、前回の東日本大震災ではなくその前の昭和53年の宮城県沖地震で一部崩れかけた石垣を20年近くもかかって予算を捻出し何とか解体を始めたのが平成10年になってからで、その時に9,189個の石材を番号を付けながら解体し、元に戻すのに10,332個の石を元に戻して修復した時に、もっと内側に政宗時代の石垣跡と思われる遺跡が出てきました。
 
 そちらは今回そのまま埋め戻したようですが、そのように何度か石垣を拡げ、高く、より傾斜をつけ、より堅固に作り直して来たようです。

 平成10年からの修繕は平成16年まで6年もかけて行われ、不足した新規石材は1,699個にも及びました。

 実はこの石垣はもともと仙台市内の国見地区という所で採れた玄武岩系安山岩でしたが、もはやその国見地区は住宅地となり石材採掘などはとんでもないことで、日本中を探してその新規の石材1,699個を集めたのがこの石垣です。

 今の技術でもその数を集めたり修復にこれだけの時間がかかるものを、江戸時代にどのようにして採掘、運搬、加工、設置したのか、まさにロマンを感じます。

 最後にこの青葉城址ですが、私の散歩コースでもあり、仙台中心部から片道で45分、歩数で6,000歩、距離は4.5キロメートル、高度差115メートルのエクササイズはちょうどいい感じで汗をかくルートになっています。




 

2021/02/06
第185回 「大塚国際美術館」

 今回は徳島鳴門海峡に隣接する、世界的にも珍しい美術館の話をしたいと思います。

 ご存知の方も多いと思いますが、大塚国際美術館。
失礼ながら、馬鹿でかくて西洋名画のコピーを多くを展示している、模倣の陶板の絵が飾ってある美術館?のようなイメージが大半かと思います。

 実は私もここに行くまではそれほど関心も持たず、興味を惹かれることはありませんでした。

愛媛県、高知県、香川県と来て最後の徳島県はどこに行こうかと考えた時に最初に出てきたのが、ここ大塚国際美術館です。

 調べてみると、薬品の大塚製薬グループ、家庭用の商品ではアース製薬と言えばいくつかの商品を思い浮かべるかと思います。
 その大塚グループの創業の地が徳島県で、それにまつわるエピソードがあってこの地に美術館を建てることになったそうです。

 実はここ鳴門海峡からは白い砂がたくさん採れます。
それに目を付けた大塚グループの建材部門(現在の大塚オーミ陶業)の創始者が、この白砂を使って大型陶板(陶器タイルの極端に大きい物)を建築用に作りたいとの情熱でスタートしたことがきっかけとなります。

 色々と研究を重ね世界でも高品質で大型の陶板の製品が作れるようになったものの、時代はバブル崩壊後の建設不況で商品の販売がはかばかしくなく、その技術の応用で写真陶板に入っていったという経過があります。

 ここで、創業者の話を私が読んで共感・感動したのが次の言葉です。

「白砂のままだったら取引はトンいくら、陶板になれば平米いくら、ところが写真陶板は一枚いくら、更に美術品の陶板なら一式いくらと付加価値の数え方が変わる。」

 まさに、仕事をする上での指標です。
自分たちの仕事はトンなのか、平米なのか、一枚なのか、一式なのか、付加価値はどのように伝わるのか?伝えるのか? とても感心しました。

 そんなことで実際にここに行ってみました。

 とにかく大きい、巨大な美術館です。
先ずは、バチカンのシスティーナ礼拝堂の天井画と全く同じ絵が、同じ大きさの規模で入館者を圧倒します。
 数年前本物を現地で見た者にとっては、ほとんど同じもの、敢えて違いを言えばバチカンの最深奥の心が引き締まるような神聖さと、必要以上に来館者のささやき声を注意する警備員の存在があるかないか位なもので、その全体感は十分に味わう事が出来ます。

 また、ゴッホのひまわり、と言えばだれでもそのイメージはあるかと思いますが、実はゴッホのひまわりって生涯で7枚描いていて、その7枚を一堂に揃えて一度に見ることはここ以外、そして今後も絶対にありえないという事もここで知りました。
 だって、そのうちの6枚は地球上のどこかに存在しているので(うち1枚は個人所有で門外不出、美術館にも貸し出しはしないそうですが)どこかの美術館に企画で全部を一堂に集めることが或いは可能としても、最後の1枚については日本人の個人所有だったものが、芦屋の空襲で焼失してしまい、写真から起こしたこちらの陶板画は残っていても現物は既にこの世にありません。
 それを含めてゴッホのひまわり7枚がすべて同じ部屋で、現物とたがわず見れるのはここでしか出来ないことです。

 最後は、レオナルドダヴィンチの最後の晩餐の壁画2枚です。

 左が修復前の黒ずんだテーブルの上で、ワインもパンも良く見えなくなっていた絵ですが、反対側の壁画はそれを数年かかって現地補修した、テーブル上に調理した魚も見えるダビンチ創作当時のままの絵となっています。

 絵画自体は本物でなくても、それをどのように見せるかによって、又写真陶板という本物の劣化に関係なく、いつまでも今を、今のまま後世に残す絵画の展示美術館ってあっても良いものだと改めて感心しました。

 興味がある方は十分に時間を取って見学されるといいと思います。

 

2021/01/15
第184回 「秋山兄弟の生家」

  愛媛県松山市にはグループ会社の店舗があり、最近はたびたび訪問するようになりました。

 そうは言っても仕事の中での出張ではほとんど観光する時間はなかったのですが、仕事とは別に時間を取ってじっくり回りたいところを見たいと思い市内のガイドマップを開いてみました。

 松山観光となれば必ず入っている松山城のロープウェイ乗り場から5分ほど、また多少時間があってじっくり回る観光コースには必ず入るだろう、坂の上の雲ミュージアムからも5分位の中間地点にその観光スポットはあります。

 個人的には司馬遼太郎の小説が大好きで、特に坂の上の雲は何度も読み返した愛読書です。
 なので、当然ながら坂の上の雲ミュージアムも松山城も2、3度足を運んでいました。

 でも、その中間にある秋山兄弟生誕の地は、あまり認知も無く訪れる人もまばらな小さなスポットで、今回初めて見学しました。

 この場所は本当に江戸時代の松山藩以来の秋山家があった場所で、秋山兄弟(兄の好古、弟の真之)が実際に住んでいた場所です。
 その兄の好古が明治の後半陸軍を退役した後に、松山市内の北予中学校の校長先生として赴任し、その際実家を多少改装して住んでいた時の状態を再現して建て直したものだそうです。

 当たり前と言っては何ですが、今の家事情から考えると小さくて狭い感じがします。
でも、司馬遼太郎が小説の中で描写している秋山好古の、人の生き様は無駄なく簡潔をもっぱらとする、というその思想が再現された家にも色濃く遺っているように感じます。

 数年前にNHKの大河ドラマ特別編(12月だけ3年に亘って全13回のシリーズとして放送された)で兄好古は阿部寛、弟真之は本木雅弘、もう一人の主人公正岡子規を香川照之での役作りもかなり原作の雰囲気にイメージが合っていると思われ、改めて最近また読み直しているところです。

 特に昨今の世相や特にコロナ禍の中で、何か下を向きがちで暗く気分がすっきりしない時代にこそ、司馬遼太郎が坂の上の雲のあとがきに書いた「登っていく坂の上の青い天に、もし一朶の白い雲が輝いているとすれば、それのみを見つめて坂を登っていくであろう」という感覚をもう一度思い出して前に進める日が来ると良いと感じます。


 

2020/12/27
第183回 「金刀比羅宮」

 「石の階段」って言ってイメージするのは各人各様いろいろあると思います。

 初詣でに行くような近くの神社の階段だったり、ヨーロッパのお城のような一階ロビーから二階の上がる大理石の階段だったり、或いは観光地でそれぞれが体験した名所旧跡の階段をイメージする人もいるでしょう。
 人によってはトレッキングや軽登山の頂上までの階段を思い浮かべるかもしれません。

 日本全国でそのような石階段イメージのアンケートってあるかないかはわかりませんが、もしあったら間違いなくベスト10位以内に入りそうなのが、金刀比羅さんの石段と思います。


 みやげ物屋が並ぶ下の入り口から本殿までは石段785段、今回はさらにその先の奥の院までさらに583段、合わせて1,368段とのことでしたが、足取りも軽く片道1時間弱の軽いトレッキングでした。
 本当に石だらけ、石の階段、石の欄干、石の鳥居と石の灯篭、ほとんどが花崗岩と見られますが、中には安山岩系、凝灰岩系も見られました。
 その多くは瀬戸内海の中の島々や琴平町近郊の石切り場から持って来たものでしょうか。
 中にはあの世界一高いと言われる庵治石のハネ石を再活用したようなものまであったように思います。
 これだけの石の数量をこの山の奥まで運んだ量たるや、20トンのコンテナで何万コンテナ分か想像もつきません。
 当てずっぽうですが、この金刀比羅さんの石階段に使った石の重量は1万コンテナ分20万トンを基にすれば、数100万トンを超える量なのでしょうね。

 いやはや1段の石の数量だけなら大したことはないですが、それが延々1,368段もあれば想像を絶するものになります。


 石の総数は想像つかないのですが、階段の高さ(蹴上げ)ってほぼ決まっていて、1段の高さが20センチメートルから25センチメートルが標準なので、1,368段は奥の院までの標高差で273.6メートル~342メートルとなります。
 お土産さんの辺りを仮に標高50メートル程度とすると奥の院の高さは323.6メートル~392メートル、多少階段で無い場所にも勾配があるので奥の院の標高はもう少し高い数値でしょう。

 後で調べてみたら奥の院は標高421メートルにあるというので、こちらの高さは全くの当てずっぽうではなかったと安心しました。


 最後にたどり着いた奥の院の正面左側の崖の岩肌に、誰が彫ったのか天狗と烏天狗の二体の石の彫刻がありました。
 これがいつ彫られて何の為に誰が彫ったのか、説明も無く不思議な感じでしたが、でも今の時代、バンクシーの落書きがこれだけ注目を浴びることを考えれば、この石天狗2体ももっと喧伝されても良いかと思いました。

 

2020/12/19
第182回 「松山城」

 宇和島城、高知城ときたらやはり伊予松山城も登ってみないとなりませんね。

宇和島城もその一つでしたが、現在日本全国で昔のままに現存するお城、つまり現存12天守の一つが松山城です。

瀬戸内海と四国山脈の間にできた広大な平野の中心に標高132メートルの勝山があり、その山頂部を平らに均した場所に本丸の天守閣が聳えています。

お城好きのアンケートでは堂々3位に入ったこともあるきれいなフォルムの天守です。

また、季節季節の花が良く似合うお城でもあります。

ここにはもちろん直接天守迄行けるロープウェイやリフトもありますが、平地にある二ノ丸跡の公園から徒歩で登ることもできます。

今回は、約20分の徒歩ルートを選びました。

往時を偲べば、家臣は毎日この道を登って二ノ丸と天守閣の間を行き来していたんだろうし、いざ戦闘となればこの道のあちこちに火縄銃や槍を持った兵が隠れ敵を迎え撃つ準備をしたんでしょう。

木陰だったり曲がりくねったりとても複雑な登攀路です。

そのポイントポイントにあるのが、立派な石垣です。

松山城は天守の美しさもさることながら、それに負けない石垣の美しさ。

上へ聳え立つ様と、美しい放物線を思わせる曲線。

芸術のような石垣のラインはしばらく見とれて立ち止まってしまいます。


もしそれが敵だったら、簡単に石落としや狭間から狙われてやられてしまいますね。



 

2020/11/05
第181回 「全国47都道府県の最後の地」

 このコラムのかなり早い回で書いたかもしれませんが、今まで日本の都道府県の中で唯一訪問しなかった県がありました。

 それが高知県です。

個人的には幕末の土佐藩、坂本龍馬、板垣退助、三菱の岩崎弥太郎、桂浜、四万十川、よさこい橋など、行ってみたいとずっと思っていましたが、今回ようやく念願がかないました。

  これで日本の全都道府県を訪問したことになりました。

 名所には行ってびっくりの珍名所というのがありますが、
よさこい橋は「えっ、こんなに小さいの?」ですし
桂浜の坂本龍馬像は「えっ、こんなに大きいの?」
四万十というのは流域がとても長くて、四万十市と四万十町が併存していて余所者にはとても分かりにくい名称です。
それならついでに四万十村というのがあったら話題殺到で面白いのにと思いました。

 県庁所在地の高知市に着いて、ここでも「石」を求めて高知城にも登ってみました。

ここは前述の宇和島城とは違い、基本は加工の大変な硬い御影石が多く、また本丸及び天守閣までの防御の為の石垣も多く、工事も10年以上に及んだそうです。

 高知城は東海地方出身の山内一豊が初代として築いた城ですので、全国的な視野に立っての城造りをしたでしょうし、御影石の加工に慣れた穴太衆(あのうしゅう)という石の職人集団を現地に呼び寄せて作った本格的な築城仕様です。

 費用は当然莫大だったと思います。
それこそ山内一豊の妻千代のへそくりでは賄い切れない程の予算だったでしょうが、その壮大な城で土佐を守り、後世偉大な人物を多く輩出する素地となったことを考えると、この立派なお城の存在してきた理由は一つではないのだと感じます。

 英雄育つところ雄山あり、或いは立派な天守閣のある所に偉人が生まれる、等の言葉もあり、初代が情熱をかけて作った城造りが、遠い後世の人々に大きな影響をもたらしたことに思いを馳せ天守閣に登ってきました。

 

2020/10/26
第180回 「宇和島の伊達藩」

 今年は誰にとっても、どんな業種の人にとっても特異な1年だったと思います。
何か下を向いてひっそりと暮らさないといけないようなそんな風潮の中で、Go Toキャンペーンが開催されたこともあり、何となく行ったことのない所を見てみたいと考え、以前から気になっていた仙台では無いもう一つの伊達藩に行ってきました。

 伊達と言えば、仙台、政宗、独眼竜、青葉城、62万石などのイメージでしょうか。

ところが、もう一つ別な国持大名としての伊達藩がありました。
四国は伊予、今の愛媛県、宇和島伊達藩10万石です。

初代は伊達政宗の長男の伊達秀宗。

この秀宗という人は戦国の時代に翻弄された一生を送ります。
本来は仙台藩の世継ぎとして育てられますが、豊臣秀吉が天下人になった時に人質として大阪に預けられ、秀吉の子の秀頼とも遊び仲間として親しく成長したようです。
秀吉にたいそう気に入られ、名前も秀吉の1字を貰い政宗の宗と合わせて秀宗となりました。

ところが、関ケ原の戦いで豊臣から徳川に政権が移り、今度は徳川家の人質として生活するようになります。
以前は豊臣と親しかったので、なかなか居心地は悪かったと思います。

そんな中、政宗に次男が生まれ、そちらが徳川秀忠から1字を貰い忠宗と名乗るようになり、徳川家への遠慮からか仙台城の後継は忠宗という事になってしまいました。

ただ、それでは秀宗の行くところが無くなるので、大坂冬の陣で政宗と一緒に活躍した褒美として、政宗の計らいと家康の恩情で伊予宇和島に10万石を与えられました。

面白いのは、支藩という今で言う支店の扱いでなく、仙台伊達藩と同じく幕府が認めた直接の国持大名、今で言う別会社のトップとして国を与えられました。。

最初こそいろいろ本家の仙台藩から応援を貰いましたが、徐々に自主独立の経営をして、明治維新まで宇和島伊達藩は続きました。
更には、幕末四賢候と言われた先進的な考えを持った大名の一人として伊達宗城という賢候を出し、明治維新の序列では本家仙台藩よりもかなり格上の藩として明治のスタートを切ることになりましたが、宇和島藩初代の秀宗はもちろんそんなことは分からなかったはずです。

さて、写真は宇和島城です。
何と国内現存12天守の一つです。
石垣は他の四国のお城や、有名な大阪城などの石垣も硬い御影石で作られていますが、こちらの石垣は砂岩や安山岩、蛇紋岩などこの近くの石を集めたようです。
御影石と比べて加工がし易く、調達も容易だったと思われます。

これを見ても、秀宗の最初の頃は藩財政も大変な苦労の中、質素倹約で立派に運営していったことが偲ばれます。

仙台と四国の宇和島、今なら飛行機ならあっという間ですが、往時は如何ほどの遠隔地だったか、父政宗を思い秀宗が遠く北の空を眺める日もあったことに相違ありません。


 

2020/03/28
第179回 「インド人街」

 シンガポールには人種的にも宗教的にも多種多様、まさに多民族国家というべき様相があります。

特にインド人街はその中に入ったら瞬間移動してインドの街に迷い込んだような雰囲気になります。

住居やお店などの建物もインド風というか、2階の窓がとてもカラフルで、インド風の細かい彩色を施していて、以前イタリアで見た漁村のだまし絵風2階によく似ています。

イタリアの漁村では生活が貧しくとても2階や3階建ての住居を建てられないのに、見栄を張ってか外壁に板1枚貼ってそこにいかにも2階、3階の窓があるように描き加えて貧しさを忘れた。
中には人の腕や頭を描いて今にも窓を閉めようとしているようなだまし絵もありました。
トロンプールイユという技法で、千葉にある世界的リゾートパークでもそこをモデルにして実際にその技法で外壁が描かれています。

そのようなものかとよくよくインド人街を見るとこちらは確かに中が開いていて、描かれた窓の中のいくつかは本当に開け閉めできるようになっていました。

また、二枚目の写真でみると、本来は長屋のような棟割りの建物のようですが、1階から2階そして屋根まで縦割りで色を塗り分け、完全に外の壁も分割しているようになっています。
その彩色やデザインの見事さもなかなかのものです。

細かな彩色とデザインに感心していると、なんとその先にあったヒンズー教の寺院の前で暫し呆然。
極彩色と超細密の融合、これこそがインドの集大成でしょうか。
素材は残念ながら石ではなく陶器と思われますが、このインパクトは長く印象に残りました。


 

2020/03/20
第178回 「兵(つわもの)どもの夢の跡」

 シンガポールの話の続きをしたいと思います。

 

 前回のセントーサ島ではなく、シンガポールの本島の中心地には有名なオーチャードロードという一大ショッピングストリートがあります。

 

 さらにその通りの中心エリアに、日本のデパート 高島屋があり通る人皆がそこを眺めたり買い物したりと人気のスポットでもあります。

 

 この中には有名ブランドも店を構え、お洒落な建物で誰でも知っている場所になります。

 

ただ、私はこの建物を見るたびに全く別な感情を抱いてしまいます。

 

 今から30年程前、この建物の設計が発表された時、世界中の石材会社が熱い視線と共に熾烈な競争を呼び起こしました。

 というのも、この高島屋の建物(ツインビル)四方の外壁全てが赤い御影石張りで、その石材の量たるや今までのアジア圏には無かったくらいの石の数量でした。

 

 最終的にはイタリアの私が良く知っている会社が受注し、よく知っている役員が責任者となり、また現地シンガポールにもよく知っている人が担当として数年間滞在したりと、私の会社の仕事ではなかったですが、なぜかその仕事の流れや内容が何となくわかるような気がしていました。

 

 このプロジェクトに使われた赤い御影石はメインが2つ、一つはインドのニューインペリアルレッド、いま世界中から産出される赤系御影石の中でおそらく最も赤色を出している石種と思います。

 もう一つはブラジルのカパオボニート、またの名をボニートレッドとも言います。こちらはもう少し柔らかいどちらかというと朱色といわれるような赤系の石です。

 

 なんとこの2つの石の丁場(採掘場)が数年に亘って半分以上このために押さえられ、なかなか手に入らない期間があって、世界中の石材需給を混乱させるほどの使用量でした。

 それまではアメリカの大型ビルには総石張りもあってそのような一時的な石材の使用があったものの、アジア圏ではほぼ最初の事例、その後日本でも東京都庁などすさまじい石材使用量の烈しい大型ビルが乱立しますが、我々にとっては世界がこんなにつながっているものかと驚くばかりでした。

 

 バブル時代の華やかさと、豪華さと、それに伴う懐かしさと羨ましさと・・・そんな数々の感情と共にその高島屋の外壁を見ると、もう一つの感情、人々の喧騒の後の寂寥感、そのような感情はおそらく私しか思っていないだろうという孤立感と共に感じてしまいました。

 

 その理由は言うまでもなく、当時のイタリアの責任者も、多くの担当者もこの業界を去り、またこの世を去って残っている人はもはやほとんど現存せずに、誰も居なくなってしまった。そしてそのことを知っている人ももういないという、その侘しさ、儚さが先に来てしまい、どうしてもこの高島屋外壁には私だけの感情がこもってしまう、そんな思いをシンガポールに行く度、見上げる度に抱いてしまう不思議な建物です。

 

 

 

 

 

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