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昨年の年末12月22日、全社員78人が一堂に会して全社会議を行いました。
恒例のこととはなりましたが、その日は14課店のそれぞれの拠点から仙台駅前のホテルモントレ仙台に集まり、役員による講演や各課店の報告・方針連絡など比較的業務の延長の第1部と、当社親睦会が主催する忘年会の比較的くだけた第2部に分かれて行われます。
その第1部では毎年必ずその年入社の新人が紹介を兼ねて新人発表を行います。
今年は全部門で7名の当年入社があり、第1部で代表者2名の朗読発表、第2部で残り全員の口頭発表を行いました。
会社や部門に新人が入るのは先輩たちにとっても刺激になることですし、また組織が老朽化しないためにも新しい血が入ってくる事は必要です。
昔と違って現在では入社のルートも多くなり、新卒だけでなく就職浪人でアルバイトから採用されたり、派遣社員からの昇格採用や、人材紹介を業務とする企業からの縁だったりといろいろな方法で良い人材に巡り会えるよう、採用面接には必ず立ち会うようにしています。
当社の企業理念『クレド』の第一番目には「企業の成長は社員の成長に因る」とありますが、既存社員の成長以上に新人の成長には伸びしろがあります。
0から10への成長は10から20への成長以上に楽しみなものです。既存社員が10から20へ伸びるのはそれは大変なことではありますが、新人が0から10へそして15へ伸びるのは、比較的たやすく期待できるものです。
ところで「新人」とは何時まで言うのでしょうか?
3ヶ月後まで、半年後まで、1年後まで、後輩が出来るまで、仕事が一人前になるまで・・・・いろいろありますが、それは周りが「もう新人で無い」と認めるまでだと思います。
仕事も、経験も、実績も、周りとの交流も、全てを含めて新人が新人でなくなる日が、会社にとっても私個人にとっても、待ち遠しく感じられます。
写真は左が第1部で緊張している様子。
右が第2部で少々お酒も入り地が出てきた様子です。
先日イタリアS社の社長トマーゾ・ボルテラーニ氏の訃報が届きました。
氏と当社とのお付き合いは1979年(昭和54年)からでもうすぐ30年になります。
私には石屋の業界で勝手に私淑している師匠が何人か居ます。
この業界で最初に研修させて頂いた岐阜のA社社長や、海外に目を向けるキッカケを作って頂いたS社長、経営者としての判断基準を相談したI 社長など国内の先輩たちは皆鬼籍に入ってしまっています。
国外にもお世話になった業界人がたくさん居ますが、韓国のT社長やスペインのR社長などやはり多くが亡くなってしまっています。
そんな中でほぼ1年1度の割合で引き続きお会いしていたのが、S社のボルテラーニ社長でした。
私がイタリアに行った時には仮に他社訪問がメインであっても必ずS社に顔を出しましたし、ボルテラーニ社長も日本に来る場合は、わざわざ当方まで足を伸ばしていただきました。
氏はヨーロッパ市場だけでなく、アメリカ市場、アジア市場、アフリカ市場、最近は中東やロシア市場など世界中と貿易実績があり、グローバルな視点を常に持っている方で、更にビジョンの時間軸をしっかり把握していました。
私は氏とお会いして、いろんな意見を聞くのが大変に楽しくまたとても参考になりました。
だいぶ昔のことですが、氏は日本のバブル崩壊を指摘しておりましたし、その後の日本の石材業界の苦戦も早くから予想していました。
また、イタリアの通貨リラのあまりの弱さに現在のユーロ統一通貨の意見もお持ちでした。その時は本当に欧州統一通貨が出来るのか疑っていましたが、今世紀に入りそれが実現し、やはり先見の明が有った方だったと思います。
昨年、私がイタリアに行った時に、フォルテディマルミの最高級レストラン「ロレンツィオ」でボルテラーニ氏と奥さんと食事をご一緒したときの写真が最後の手持ちとなりました。
その後も今年になって夏に短時間でしたがイタリアでお会いしていましたし、本当なら亡くなる10日ほど前に二人で日本にいらっしゃる予定でした。
その時は本当に健康上の問題でなく、材料調達のビジネス上の問題で、娘婿のファブリッツオだけの訪問でしたが、その時もボルテラーニ氏へ当社の最近の報告や今後の件を託して伝えてもらいました。
聞くところによると、前日まで何も問題なくお仕事をされており(前々日当社宛にもメールが届いておりましたが)その日朝8時過ぎに、会社のご自分の部屋で突然倒れられたとの事。
心臓発作で69歳のご生涯だったとの事です。
また一人業界にとって、とても惜しい方を喪ったと思います。
大変に寂しいかぎりです。
トマーゾ・ボルテラーニ氏のご冥福をお祈りいたします。
前回に続きイタリアの風景について述べていきましょう。
最初の写真は誰でも知っているイタリアの会社アルファロメオのロゴです。
ところが初めて知ったのですが、これはミラノの王族(貴族)ヴィスコンティ家の紋章の右と左の剣とドラゴンを取り替えた物で、ミラノゆかりの会社のためにこのマークを使用したそうです。それでもそのまま同じでは失礼とばかりに、左右を逆にしたのでしょうか?
次の写真は、手前右にイタリアのブランド グッチのロゴが黒地に金文字で描かれています。
面白いことに、その奥には誰でも見たことがある、Mのマークがあります。
でも何か違いますよね。
ロゴの色がやっぱり黒地に金文字です。
これはこの場所に合ったロゴの大きさや色使いに規制があり、この通りのハンバーガー店マクドナルドは、何と豪華な黒地に黄金のロゴです。
最後の写真は建物の中の階段の天井部分です。
白と黄色の大理石でレリーフを彫りこみ、それだけでもきわめて豪華な天井なのですが、更に金メッキして「黄金の階段」と呼ばれています。
イタリア人に限らず、世界中の人々があこがれる黄金色(おうごんしょく)たる所以でしょうか。
そう言えば、イタリアの大理石には「オーロ」と名の付く石がいくつかあります。
黒地に金色のラインの入った大理石「ポルトオーロ」(黄金の港)
白大理石に薄い金色の模様の大理石「カラカッタバーリオーロ」(金色の細かい模様)
どちらも大変に希少性があって高価な大理石です。
さすがに「オーロ(黄金)」の名前の付いた石ですね。
約1年ぶりにイタリアを訪問しました。
前回訪問からわずか1年の間に、当社と取り引きのあったイタリアの石屋さんが、日本で言う民事再生法を申請したり、20年以上当社担当だったイタリア人の営業マンが他社に移ったり、今まで取り引きのなかった会社がわざわざ当社まで訪問に来たりと大きな変動があったために、大理石の検品と現地状況視察を兼ねての訪問でした。
イタリアの大理石産業がどのような変遷を経て、現在はどんな状況下にあるのか、そして今後はどうなって行くのか等、仕事上の堅い話は後日として、今回はその付録のようなイタリアの街角や風景を紹介しようと思います。
街を歩いていると偶然に道路工事や石の補修工事に出くわしますが、それもとても興味を惹かれます。
イタリアの道路は歩道であれ、車道であれ多くが舗石を使用しています。
業界用語ではピンコロといって10cm×10cm×10cmの立方体をしたサイコロ状の石を歩道に敷き詰めていきます。
日本では時に施工性を良くするためや、コストを下げる為にその半分の厚み10cm×10cm×5cmや、3分の1の厚み10cm×10cm×3cmのヒラピン(平らなピンコロの意味)を使用することもあるが、さすがに石の本場のイタリアでは、自動車が走っても摩滅しないように10cm立法のピンコロを使用しています。
この写真は偶然に通りかかった、車も通れる歩道の舗石補修の写真です。
日本の職人さんと同じように糸を張って施工しています。
これならその上を車が走ろうと大丈夫です。
最後の写真は教会前の広場の床ですが、こちらも全て舗石貼りです。何百年にわたり、何千万人、何億人が歩こうとも、靴の底は摩滅しても石は摩滅しないわけですよね。
例年の事ですが、今年も東北建築石材工業会の会社対抗ソフトボール大会が行われました。
以前のコラムにも書きましたが、石屋さんの団体は大きく二つに分かれています。
一つは墓石店中心の団体、もう一つは建築石材業者の団体です。その建築石材全国団体の東北支部の集まりがこの東北建築石材工業会で、現在東北6県17社の石材会社が参加しています。
昭和の時代(昭和61年)から会員各社の社員の親睦とレクリエーションのためにソフトボール大会を続けてきて、今年は既に22年目になります。
初め4社の対抗戦でスタートしたこの大会も、途中では12社10チームの予選リーグから勝ち上がって決勝戦というそれなりの大会になったこともあるものの、今では廃業や縮小、退会する会社もあり近年は半分位しか集まりません。
単独1チームが難しいので、数社で連合してチームをそろえたり、既に現役終了のOBを集めたりと各社苦労して参加しています。
当社では本社販売課、仙台支店、本社工場など比較的若い社員も多いので、何とか2チーム作り松島産業Aチーム(本社工場の若い衆中心)と松島産業Bチーム(本社販売課と仙台支店の若干ベテラン勢)で参加しています。
昨年は他社のチームが4チームあって全部で6チームになったため、予選を2ブロックで行い、その1位同士での決勝戦でしたが、何と松島産業A対松島産業Bの決勝ということで、他の皆さんには退屈で申し訳ない事になってしまいました。
結果は若い衆が多い工場チーム(松島産業A)の優勝でしたが、試合をしている当事者達は社内運動大会のようでもあり、また日頃の仕事上の鬱憤を相手にぶつけるよい機会となっていたかもしれません。
さて今年は、他社のチームが3チームということで、急遽松島産業Aチーム、Bチームと残った人から他の会社と連合した松島産業Cチーム(他社連合)を作りやはり6チームとして何とか2ブロック予選を行いました。
今年の成績は松島産業C(他社連合)はあえなく予選敗退、松島産業Bも三位決定戦で敗戦し第4位でした。ただ工場主体の松島産業Aは決勝に進み連続優勝で幕を閉じました。やはり平均年齢の高い順に打てない走れない投げれないとなるようです。今回持ち帰った優勝カップで確認したところ22回大会中、当社が半分の11回優勝させていただいたのも、他社より若干平均年齢が低いせいだと思います。
それでも勝敗に関係なく、青空の下で思いっきり体を動かすのは(翌日の筋肉痛を除いて)気持ちのいいものです。翌日はみんな真っ黒に日焼けして健康そのものでした。
ところでとても不思議なことですが、この大会は22年間ずーっと6月か7月の梅雨時に行っているにも拘らず、一度も雨で中止になったことがありません。日程や各社の都合上、雨天の場合は中止となっているのに、毎年行われてきました。きっとこの関係者の中に大きなパワーを持った晴れ男・晴れ女が居るのかもしれません。石屋さんパワーはすごいです。
尚、当社の建築部門のほかに、まつしまメモリーランド部門(墓石部門)の社員は、別に宮城県曹洞宗青年部主催のソフトボール大会に参加させていただいていますが、今まではたった1勝も出来ずに毎回予選敗退でしたが、参加4回目の今年は何と第3位に入賞させてもらいました。こちらも勝敗に関係なく日頃お世話になっている方々との親睦や気分転換のために今後も続けて行きたいと思っています。
毎回「石」の話しやそれに関連する事を書いていますが、今回はちょっと脱線気味で、私のお気に入りの店の話をしましょう。
お店から広告料をもらっているわけでもなく、グルメ番組でもないので、お店の場所や名前は出さないことにしますが、よく食事に行っているお気に入りの店が何軒かあります。
もちろん新しい味を求めて、新規にお店を探すこともしますが、行き付けの和食のお店や、ワインのお店、お寿司屋さんや、スパゲッティの美味しい店、中華料理店、焼き鳥屋さん、ラーメン店など、気に入ると何度も足を運ぶ「常連」の店も結構あります。
今回のお話しはピザ屋さんのことです。
比較的交通の便の悪い場所でテーブルが4つとカウンターだけ(確か?)の小さな無名のピザ屋でしたが、「ナポリ風ピザ」と言うことで、生地がもっちりしていて焼き加減も良く、イタリア直送のチーズが程好くとろけて大変美味しいピザ屋さんです。
最近は口コミによる評判も大いに上がって、テレビ局の地元番組で何度も取材を受けていて、放送後は混み過ぎてなかなか予約が取れなくなってしまいました。
初めて食べに行った時に、厨房の見えるカウンター席だったのですが、ピザを焼く石窯をマスター達が手造りで作ったことを聞き、カウンター越しに「石」の話になりました。
ピザの生地を練るのに使っていたパン(ピザ)練り台がなぜか赤みかげ石だったので、「みかげ石」と「大理石」では若干の組成の違いから、生地がうまく伸びなかったり、台にくっ付いたりしませんか?との質問に「えっ、分かりますか?何でですか?」とマスターとやっぱり石がきっかけで話しをするようになりました。
また、その他にはイタリアの料理のことや、ワインのことなどを話すうちに、そのマスターがかなり勉強家で、今の人気だけに満足せず、常に新しいものに挑戦し、料理の味を研究している事がわかると、次に行った時には何が新しく出てくるだろうか、新しいワインは何を入れただろうか?と行く楽しみが増えてきました。
また、最近知ったことですが、マスターは、元々料理人を目指していたのでなく、ネパールなど各地を旅し民族楽器を演奏する音楽家の道を目指していたとの事。
たまにマスターの気分が乗って、お客様が一段落したときは、写真のようにネパールのサーランギという民族楽器を弾いてもらいながら、石窯で焼いた美味しいピザとイタリアワインのご馳走は、私にとって何よりの楽しみです。
先日、休みと研修を兼ねて青森市の三内丸山遺跡を見に行きました。
平成12年に国の特別史跡に指定され、平成14年に記念館等が整備されて評判になっていましたが、ようやく見に行くことが出来ました。
観光地を含めどこで何を見ても、石やお墓や建築様式などついつい仕事に関係のある視点でモノを見てしまうのは、悲しいサガなのでしょうが仕方ありません。
復元建築では栗の木を利用した掘立柱櫓や堀立柱住居、大型の多目的集会所など、権力の集中や序列の存在、指示命令の仕組みが有った様に見受けられます。定住化も進んでおり、5,500年前から4,000年前までの1,500年間もここに居たことを考えると、縄文時代と弥生時代との違いが、高校で習ったような単純明快でない事が理解できます。
また、その頃の交易範囲も非常に広く、新潟県の糸魚川近辺のヒスイや北海道の黒曜石、岩手県久慈近郊のメノウなど実用品や装飾品として物々交換されていただろう事も容易に想像できます。当時から石は貴重な財産であったのでしょうから、苦労して遠くまで求めに行ったことと思います。
また、この遺跡にあるお墓は大きく3種類に分かれるようです。
一つは村の入り口の大きな本通りの両脇に整然と並ぶ大人の土抗墓です。5,000年も前のことなので、さすがに人骨は完全に分解してしまって出土しませんが、ヒスイのペンダントなどの石が出てきたそうです。
長寿(と言っても平均寿命は35歳位らしいですが)の人たちには村を守るシンボルの為か、村の入り口を墓域にしています。
次は子供(乳幼児)のお墓です。これは村の北側の居住区の近くで、土器に遺体を入れて埋葬したものです。なんとこの土器の中にはこぶし大ほどの石が1 2個入っていました。
お墓を石で作るルーツとも考えられますが、なぜ石を入れたのか、またその土器は底に穴をあけて埋葬されたことなど何らかの縄文人の死生観を表しているのでしょう。
最後は村の南側から発掘された環状列石(ストーンサークル)です。
こちらは長老などの権力者のお墓なのか(?)、わりと墓域が広くなっています。また、小さな丸石を環状に並べて、遺体のあっただろう中心には人型の大きな石が配置されています。
後の古墳や墳墓遺跡につながるものなのでしょうか?意味も用途もまだ解明されてはいません。
ただこれら3種類の縄文時代のお墓にも、全てにおいて石が何らかの意味を持っていて、石とお墓、石と埋葬、石と権力、石と追憶、石と死生観・・・
人類にとっての石の役割をあらためて考えさせられる春の三内丸山遺跡でした。
先月私の母校である東北学院高校からの依頼で『先輩に聴く』という題の講演をしてきました。
このOB講演は進路指導行事の一環で、職業や進路を決めるキッカケ作りでもあり、職業観や勤労観、人生観などの参考にすべく何十年も前から行われて来ていた行事です。
私の高校時代にもやはり同様のOB講演が、旧校舎の礼拝堂で行われていました。
今回私に白羽の矢が立ったのは、高校時代の同級生(熊谷先生)が母校の先生として教鞭を執っており、その熊谷先生が今回の企画担当になり、旧交をあたためていた私に連絡が来たという流れでした。
以前から自分の高校生時代に聴いたOB講演がとても印象に残っており、30年以上経った今でもその時の衝撃を覚えていて、私の人生を通して大きな役割を担ってくれたこのOB講演には感謝をしていたので、恩返しのつもりで了解の返事を出させて頂きました。
その印象に残っている講演とは、先輩のお名前は失礼ながら覚えてはいないものの、大学病院の脳外科の教授か助教授か、とにかくお医者さんだったと思います。
30数年前に脳疾患の患者を救う為の手術方法や手術の様子を映したスライドなど、当時の最先端の医療技術と医者としての心構えのようなものをお話されました。
その頃は今ほど医療や手術などの情報が少ない時代で、医師や病院といえば象牙の塔のイメージが強かった時に、OBの先輩から詳しくその内容をお聴きし、その前年に祖母が病死したこともあり、当時高校生の私にとってかなり印象的な出来事でした。
そんな想い出があったので、今度は逆に私がお話しして、少しでも参考になればとお引き受けした次第です。
講演内容は『私の職業観を支えた三人の恩師』という題で、初めに教職を目指すキッカケとなった高校時代の恩師勝野雄大先生の事、教員時代に上司の鑑と尊敬した小林義之教頭先生の事、石屋修行時代の業界重鎮の安藤博之社長の事などをお話ししました。
機会があれば、この内容をいつかコラムに書きたいと思います。
なお、講演の様子は仙台経済界という雑誌の5・6月号(5月25日発行)にフォト&トピックの欄で載っています。
私が彫刻家安部大雅氏と初めて会ったのは偶然の事でした。
2004年6月イタリア出張でトスカーナ州のカッラーラ市に行った時、たまたま現地駐在員と一緒にバーベキューをすることになり、そこで知人として参加されたのが安部大雅氏でした。
カッラーラ市は世界的にも有名な白い大理石(ビアンコ・カララ)を産出し、世界有数の石材産業集積地であり、たくさんの石材会社、石材機械メーカー、石材加工資材会社等が林立し、世界中から石材関連の人たちが集まる地域です。
大理石の採れる山並みは、夏でも白く聳え立ち,まるで雪に覆われているように見えますが、全て白大理石の採掘場です。中にはルネッサンス時代にミケランジェロが彫刻に最も合う石質が採れる場所として指定した、ミケランジェロの丁場と呼ばれる場所もあります。
石彫刻やモザイクなどの芸術家或いはそのタマゴ達も大理石のメッカとも言うべき、このカッラーラ周辺に住み、彫刻の学校で学んだり展覧会参加の作品制作に勉励しています。
彼(安部大雅氏)もその中の一人であり、10年近く現地イタリアで修行を積んでる埼玉県出身の新進気鋭の石彫家でした。
その年の後半日本に帰り、個展を開いたり、美術学校で教えたりする予定があるとのことでした。
日本に戻り、その年の暮れ、銀座の画廊での個展開催時の訪問で一挙に親しくなり、一緒に仕事をしてもらうようになりました。
翌年2005年には当社泉店の展示品リニューアルにあわせ、『彫刻家アベヒロマサ[世界に一つだけの墓]シリーズ』のデザイン制作及び加工監修の為、一緒に中国アモイ事務所に出張に行きました。
この時の様子は、仙台のTV局ミヤギテレビの情報番組「OH!バンデス」のなかで10分間の特別コーナーとして取材放映されました。
この後も2006年『アベヒロマサ追加シリーズ[世界に一つだけの芝墓石]』を制作依頼、昨年2007年は安部大雅氏の「京都町家の個展」用大理石の材料提供などお互いに深いお付き合いが続いています。
下の写真は今年2008年2月に、ある倉庫会社の依頼で受けた入り口のモニュメント制作の一端です。
まだ雪の残る寒い松島(第二工場の一角)で、2週間以上に亘りただ削り続けていた姿と、少しずつ形になってきた写真と、完成設置後の写真です。
あの硬い石をイメージどおりに作り上げるのは、石の組成を知ってる我々からすれば、半端な苦労じゃないと思うのですが、安部大雅氏は事も無げに実施してしまいます。
まだまだ若い33歳、これからが期待の有望な石彫家です。
機会があれば是非作品をご覧になってください。
今回は読書の事について書きたいと思います。
どちらかと言うと歴史物や人物もの、ビジネス関係や仕事がらみの本が多いですが、平均すると月に5冊から10冊位のペースで読んでいます。
夜寝る前に1時間から2時間程度、休みの日の午後、出張時の電車や乗り物の中などが主な読書タイムです。
比較的いろんなジャンルに興味があり、本屋に行って眺めていると一度に10冊ほど購入してしまいます。その後気に入った物から順に読み終えていきます。
あまり本の中に直接書き込みをしたり、ページを折ったりする事が無いので自分ではきれいに読んでいるつもりです。
ただ、最近は読んでいて「なるほど」「ここは覚えておきたい」と思っても、読了すると忘れてしまう事もあるので、メモ帳持参で気が付いた事を書き残すようにしています。
読んで感動した本や勉強になった本があり、以前社員のみんなに数冊購入して読んでもらった事がありました。
工場内のボトルネックを見つけ効率的な生産管理手法を、物語風に記した『ザ・ゴール』を製造課全員に宿題として読んでもらったり、役員の皆さんには「自分で気に入った物を購入し本の内容を紹介する」課題などを出したこともありました。
そうこうしている内に、本の置き場に困り、中国アモイ出張に行った時、書庫がかなり安く売っていたので、むこうで購入して、本社の階段の踊り場に設置しました。
その後読み終わった本は、社長図書として、社員誰でも借りて読めるようにしました。
「社長図書貸し出し制度」です。
期間や冊数制限などの規則はほとんどありません。
一度に10冊も借りて行く人もいれば、半年間返さない人もいますが、皆さんの運用に任せています。
ただこの貸し出しも3,4年過ぎた昨今は、借り出しするのはいつもの同じメンバー2,3人だけになっているので、少しもったいないような気もします。
最後に最近読んだ本の紹介をしておきましょう。
お正月に読んだ本に、宮城谷昌光の『太公望』、和田秀樹『人は感情から老化する』、今話題になっている高級セグメント戦略の『プレミアム戦略』遠藤功著などがあります。
どれも面白い内容でした。
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