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今回は中国の新会社設立に関しての事を書きたいと思います。
当社には2001年8月に設立登記した日本松島産業厦門代表処という駐在員事務所(アモイ事務所)があり、現地社員を採用し、中国国内の申告納税も行い正規の法人として運営しています。
ところが代表処は現地で正式に登記された法人でありながら、制度的に業務の範囲が限定され、日本の本社との連絡業務や情報収集、検品指導などの限られた中での事業しか出来ません。
外国資本に市場を開放するにはなかなか時間もかかることで、今までは中国法人との合弁か、中国政府が認める特別な許可が無ければ外資の独資(中国以外の国の単独出資)での企業設立は不可能だったのが、近年制度が変わりそれが出来るようになりました。
100%出資で独資企業が出来れば、輸出入の実務も、現地での販売・購入も、不動産の所有も、通常の会社と全く同じように行うことが出来、将来へ展望が大きく開けるとの事で、数年前から考えていたことではありました。
ただメリットが有れば、デメリットが有るのは何事も同じで、今回の独資設立には社内外からも賛否両論それぞれ分かれました。
今回の設立プロジェクトが実際にスタートしたのは昨年の9月、お披露目が今年の10月だったことを考えると、約1年かかったことになります。
途中の経過は省くとして、今回お世話になった現地中国の取引先や関係する人々に来ていただき、大志貿易(厦門)有限公司の設立お披露目を行いました。
初めに厦門駅前の新会社オフィスでの除幕式、その後事務所内覧、場所を移動しての宴会と移り、参加頂いた約30人の顔を見、話を聞きながら、私が始めて中国に来た1993年の事を思い浮かべておりました。
それから16年間の中国の劇的な変化、世界の経済地図の変化、日本の状況の変化、当社の業績の変化など思い描くものが、次々に頭に去来しました。
今後は松島産業から独立した形での独自の経営と、グループ企業としての協力体制の中で、大志貿易(厦門)有限公司を発展成長させ、可能性を拡げていきたいと思います。
最近でこそ海外への出張が少なくなりましたが、以前はほぼ毎月飛行機のお世話になっていました。
飛行機の旅は電車や車とはまた違った意味での新鮮さがあり、日常の連続である新幹線の旅(出張も含め)や高速道路を利用しての車の移動とは全く違う感じがあります。
今までの飛行機の旅では、仕事の疲れが気圧の変化で顕在化し機内で具合が悪くなり、席を譲ってもらって横になって着陸したことや、飲んでいたワインをこぼしてしまい周りの乗客に迷惑をかけた事、逆に預けたスーツケースが届かなかった事は3 4回あったし、目的地と違う所で降ろされて乗り継いだこともあり、飛行機をめぐるいろんな思い出がよみがえります。
飛行機の室内は狭くて居心地が悪い分だけ、サービスを揃えくつろげる環境を作って貰っていますので、最近では食事やお酒を頂き、映画の最新版を視聴し、後は寝てしまうというパターンが非常に多く、席も窓側でなく通路側の指定がほとんどでした。
先日、座席指定の関係で久しぶりに窓側に座り、何気なく外を眺めていたら、写真のような雲海の広がりで、30数年前に初めて飛行機に乗り、雲海を見た感動を思い出しました。
飛行機には何か異文化に触れる期待や未知なる事との出会いなど、浪漫のようなものがあるのでしょうか。久しぶりに雲海を見て、まだ見知らぬ所への郷愁や彷徨の心(?)そんな気持ちが湧いてきてしまいました。
中国の福建省に厦門(日本語ではアモイ、中国ではXiamen)という人口が公称では120万人、実際には出稼ぎ者が住民登記していないため本来は200万人近い中堅都市があります。
ここは改革開放の自由化経済の奔りとして、上海や青島等と共にきわめて早い段階から自由貿易港を抱え、道路整備や交通機関なども近隣とは大きく違い、日本人が滞在するのに適している、とても綺麗で近代的な街です。
厦門から高速道路で2時間 3時間のエリアに石材加工の町が点在している為、当社も早くからここ厦門に拠点を構え、2001年より駐在員事務所を登記し、中国人社員も8名在籍しています。
当初の数年間は日本の本社から責任者を派遣し、現地所長は日本人社員、スタッフは中国人、首席代表は一応私が兼任という組織でした。
しかしながら、現地の社員の成長や、中国人スタッフの日本本社研修などを経て、現在では所長以下全員が中国人スタッフだけで運営されています。
当初よりほとんどの用件は電話やメールで済むようになってきた為、私は2泊3日乃至は3泊4日程度の出張を年に3回 4回行くだけで申請関係なども含め事足りていました。
それでも4回×約10年=約40回近く厦門に行ってる計算になります。
日数でも3日×約40回=約120日で、連続なら4ヶ月以上滞在しています。
ところが、食事に行く店や料理などは比較的いつもの店が多く、なかなか新規開拓がありません。
今回、それではいけないと新規開拓で新しい店を見つけてきました。
厦門のオリジナルな麺で、辛みそをまぶして食べるのですが、味は韓国のビビン麺か、盛岡のジャジャ麺のような感じです。大が5元(75円)で中国では普通の値段です。
スープはワンタンのようなものですが、中のお肉がとても柔らかくて、ワンタン生地も一番高い2色の8元(120円)のものを食べました。
メニューはなんと壁に直接書いてあって何処からでも見れます。
店の感じは写真のようですが、これが昼時には行列を作るほど大繁盛です。
とても美味しかったですし私の好みにピッタリで、なぜ今まで知らなかったのだろうかと不思議な感じです。
やはり何事も新規開拓の気持ちが無いと駄目ですね。
実は特に勉強好きではありませんが、仕事上必要なことも含め、改めて経営学を系統立てて学びたいとずっと思っていました。
ただMBAの勉強となると本業そっちのけで、時間も能力も集中しないとならないので、実現しないで数年が経ってしまっていたのが現状でした。
今回全くの偶然ですが、東京四谷の上智大学が、オープンスクール形式でエグゼクティブ・ビジネス・アカデミーを初めて開講するのを知りました。
内容は4月より7月までの4ヶ月間、しかも土曜日の午後だけの10日間・14コマの授業との事。経済学部経営学科の教授が中心となり、8人の教授の講義と6人の経営実務者の外部講師講演で、各講義の後は質問やフリートーキングという案内でした。
2月中頃に申し込みをし、私を入れて10名の各実業界の経営関連現役の方が第一期生として4月より学び始めました。
土曜日の授業という事で、日帰りだったり、出張に絡めたり、後半は都内の仕事をこれに合わせたりと、何とか工夫して一回も休まずに授業を受けることが出来ました。(皆勤賞も頂いてしまいました。)
毎回違う分野の経営に関する授業も新鮮だったし、更には著名な経営者が直接経営に関する話をしてくれるのが楽しく、そして何より得るものも多かったと思います。
7月末までの10日・14コマを完了して、8月1日には多くの大学関係者や外部講師の先生方が集まり、修了式も行われました。
ここで得られたものは、知識ばかりでなく、大学とのネットワーク、外部講師個人やその会社とのマッチング、そして同じ一期生同士の連携など人的なプラスも大いにありました。
上智大学としては、このアカデミーを継続して開催し、春季は東京・秋季は大阪と交互に予定しているようです。
第一期修了生としては、どんどん後輩が増えて、ますます人の輪が増えていけば尚更良い事だと考えています。
いろいろ忙しい時期に重なり、大変な思いもありましたが、数十年振りの学生気分は別な意味でもリフレッシュになり充実した数ヶ月だったと、改めて達成感と共に感じました。
写真は 大学の外観 授業風景 修了式 の様子です。
しばらく諸行事や雑用、その他の用事が重なりコラムの更新が出来ていませんでした。
同じくゆっくり休む時間も無かったので、一区切りが付いた先日、思い切って秘湯の宿を予約し心身のリラックスタイムを存分に味わってきました。
平家落人の里といわれる栃木県の湯西川温泉。
日光の鬼怒川温泉や北の方から行くと那須塩原温泉より更に奥まった、本当にその先に道が続いているのかと思うような景観を越えて、やっと辿り着く秘湯です。
平家の落ち武者が移り住み、また村落の中には当時より連綿と続く家系もあるとか。
旅館には早めに到着したので、温泉街を流れる川に沿って散策したり(写真1)、テーマパークのようになっている平家の里を見学したりしてきました。
ところが、職業柄か自分の性格によるのか、ついついこのような奥まった所ではどんなお墓の形なんだろうとか、石の種類は何だろうなど興味を抱いてしまい、村落のほぼ真ん中にある墓地を散策コースに入れてしまいました。
本体に笠を載せた大名墓があったり、万成石や白御影上級石種が多く価格的にもかなり高額なお墓が多かったのも驚きですが、それよりびっくりしたのはお墓の外柵に家系図が彫りこまれており、更には初代が平清盛から続く家系の代々墓で、平家の直孫の方がいらっしゃる事でした。(写真2)
ついつい夢中になり、せっかく仕事を忘れてゆっくるする予定だったと思い返して、夕方からは温泉三昧、そして囲炉裏のお料理(写真3)と竹筒のお酒、最後には若女将の十二単姿で挨拶を受け、久しぶりの休日を堪能してきました。
もう一度行きたい温泉の一つとして、想い出に残る場所でした。
先日彫刻家の安部大雅氏より招待状が届き、アベヒロマサ辰巳プロジェクト 月島倉庫壁面オブジェ 完成披露に列席させていただきました。
安部大雅氏とのイタリアでの出会いが2004年だったので、既に5年のお付き合いをいただいていますが、彼には毎回うれしいサプライズがあって、とても待ち遠しく感じていました。
今回は氏の絶大な理解者であり協力者である月島倉庫株式会社の北川会長のご好意の下で、会社の辰巳倉庫の巨大な壁面にアベヒロマサデザインで自由にモニュメントを作って良いとの提案から始まったようです。
北川会長のご挨拶にもあったのですが、日本の建築物に芸術・アートを取り入れる風潮やチャンスが少ない。
そこで自社の新築倉庫の壁面一面を安部大雅氏に委ねられたとのことでした。
後日いただいたDVD「辰巳プロジェクト 月島倉庫 壁面オブジェ完成までの道 を視聴すると、途中かなりの困難があったようですが、とにかく完成お披露目に至りました。
パーティーの中でも安部大雅氏はこの成しえた大事業を淡々と述べていましたが、まだまだ彼の懐の深さと湧き出る能力が感じられます。
後で北川会長とも親しく話させてもらいましたが、もっともっと芸術・アートが溢れる風景を残していきたいとの想いは共通するところでした。
まさにビックプロジェクトの完成に驚きと感心の参加でしたが、安部大雅氏には更にサプライズが用意されていました。
氏のかたわらに寄り添うようにいらっしゃったのが、この度、氏の独身生活にピリオドを打たせたかわいらしい奥様で、ご挨拶をいただきました。
何とご結婚されたばかりとの事。オメデトウゴザイマス。
ますます芸術活動に磨きがかかるものと確信してきた完成披露参加でした。
昨年の年末12月22日、全社員78人が一堂に会して全社会議を行いました。
恒例のこととはなりましたが、その日は14課店のそれぞれの拠点から仙台駅前のホテルモントレ仙台に集まり、役員による講演や各課店の報告・方針連絡など比較的業務の延長の第1部と、当社親睦会が主催する忘年会の比較的くだけた第2部に分かれて行われます。
その第1部では毎年必ずその年入社の新人が紹介を兼ねて新人発表を行います。
今年は全部門で7名の当年入社があり、第1部で代表者2名の朗読発表、第2部で残り全員の口頭発表を行いました。
会社や部門に新人が入るのは先輩たちにとっても刺激になることですし、また組織が老朽化しないためにも新しい血が入ってくる事は必要です。
昔と違って現在では入社のルートも多くなり、新卒だけでなく就職浪人でアルバイトから採用されたり、派遣社員からの昇格採用や、人材紹介を業務とする企業からの縁だったりといろいろな方法で良い人材に巡り会えるよう、採用面接には必ず立ち会うようにしています。
当社の企業理念『クレド』の第一番目には「企業の成長は社員の成長に因る」とありますが、既存社員の成長以上に新人の成長には伸びしろがあります。
0から10への成長は10から20への成長以上に楽しみなものです。既存社員が10から20へ伸びるのはそれは大変なことではありますが、新人が0から10へそして15へ伸びるのは、比較的たやすく期待できるものです。
ところで「新人」とは何時まで言うのでしょうか?
3ヶ月後まで、半年後まで、1年後まで、後輩が出来るまで、仕事が一人前になるまで・・・・いろいろありますが、それは周りが「もう新人で無い」と認めるまでだと思います。
仕事も、経験も、実績も、周りとの交流も、全てを含めて新人が新人でなくなる日が、会社にとっても私個人にとっても、待ち遠しく感じられます。
写真は左が第1部で緊張している様子。
右が第2部で少々お酒も入り地が出てきた様子です。
先日イタリアS社の社長トマーゾ・ボルテラーニ氏の訃報が届きました。
氏と当社とのお付き合いは1979年(昭和54年)からでもうすぐ30年になります。
私には石屋の業界で勝手に私淑している師匠が何人か居ます。
この業界で最初に研修させて頂いた岐阜のA社社長や、海外に目を向けるキッカケを作って頂いたS社長、経営者としての判断基準を相談したI 社長など国内の先輩たちは皆鬼籍に入ってしまっています。
国外にもお世話になった業界人がたくさん居ますが、韓国のT社長やスペインのR社長などやはり多くが亡くなってしまっています。
そんな中でほぼ1年1度の割合で引き続きお会いしていたのが、S社のボルテラーニ社長でした。
私がイタリアに行った時には仮に他社訪問がメインであっても必ずS社に顔を出しましたし、ボルテラーニ社長も日本に来る場合は、わざわざ当方まで足を伸ばしていただきました。
氏はヨーロッパ市場だけでなく、アメリカ市場、アジア市場、アフリカ市場、最近は中東やロシア市場など世界中と貿易実績があり、グローバルな視点を常に持っている方で、更にビジョンの時間軸をしっかり把握していました。
私は氏とお会いして、いろんな意見を聞くのが大変に楽しくまたとても参考になりました。
だいぶ昔のことですが、氏は日本のバブル崩壊を指摘しておりましたし、その後の日本の石材業界の苦戦も早くから予想していました。
また、イタリアの通貨リラのあまりの弱さに現在のユーロ統一通貨の意見もお持ちでした。その時は本当に欧州統一通貨が出来るのか疑っていましたが、今世紀に入りそれが実現し、やはり先見の明が有った方だったと思います。
昨年、私がイタリアに行った時に、フォルテディマルミの最高級レストラン「ロレンツィオ」でボルテラーニ氏と奥さんと食事をご一緒したときの写真が最後の手持ちとなりました。
その後も今年になって夏に短時間でしたがイタリアでお会いしていましたし、本当なら亡くなる10日ほど前に二人で日本にいらっしゃる予定でした。
その時は本当に健康上の問題でなく、材料調達のビジネス上の問題で、娘婿のファブリッツオだけの訪問でしたが、その時もボルテラーニ氏へ当社の最近の報告や今後の件を託して伝えてもらいました。
聞くところによると、前日まで何も問題なくお仕事をされており(前々日当社宛にもメールが届いておりましたが)その日朝8時過ぎに、会社のご自分の部屋で突然倒れられたとの事。
心臓発作で69歳のご生涯だったとの事です。
また一人業界にとって、とても惜しい方を喪ったと思います。
大変に寂しいかぎりです。
トマーゾ・ボルテラーニ氏のご冥福をお祈りいたします。
前回に続きイタリアの風景について述べていきましょう。
最初の写真は誰でも知っているイタリアの会社アルファロメオのロゴです。
ところが初めて知ったのですが、これはミラノの王族(貴族)ヴィスコンティ家の紋章の右と左の剣とドラゴンを取り替えた物で、ミラノゆかりの会社のためにこのマークを使用したそうです。それでもそのまま同じでは失礼とばかりに、左右を逆にしたのでしょうか?
次の写真は、手前右にイタリアのブランド グッチのロゴが黒地に金文字で描かれています。
面白いことに、その奥には誰でも見たことがある、Mのマークがあります。
でも何か違いますよね。
ロゴの色がやっぱり黒地に金文字です。
これはこの場所に合ったロゴの大きさや色使いに規制があり、この通りのハンバーガー店マクドナルドは、何と豪華な黒地に黄金のロゴです。
最後の写真は建物の中の階段の天井部分です。
白と黄色の大理石でレリーフを彫りこみ、それだけでもきわめて豪華な天井なのですが、更に金メッキして「黄金の階段」と呼ばれています。
イタリア人に限らず、世界中の人々があこがれる黄金色(おうごんしょく)たる所以でしょうか。
そう言えば、イタリアの大理石には「オーロ」と名の付く石がいくつかあります。
黒地に金色のラインの入った大理石「ポルトオーロ」(黄金の港)
白大理石に薄い金色の模様の大理石「カラカッタバーリオーロ」(金色の細かい模様)
どちらも大変に希少性があって高価な大理石です。
さすがに「オーロ(黄金)」の名前の付いた石ですね。
約1年ぶりにイタリアを訪問しました。
前回訪問からわずか1年の間に、当社と取り引きのあったイタリアの石屋さんが、日本で言う民事再生法を申請したり、20年以上当社担当だったイタリア人の営業マンが他社に移ったり、今まで取り引きのなかった会社がわざわざ当社まで訪問に来たりと大きな変動があったために、大理石の検品と現地状況視察を兼ねての訪問でした。
イタリアの大理石産業がどのような変遷を経て、現在はどんな状況下にあるのか、そして今後はどうなって行くのか等、仕事上の堅い話は後日として、今回はその付録のようなイタリアの街角や風景を紹介しようと思います。
街を歩いていると偶然に道路工事や石の補修工事に出くわしますが、それもとても興味を惹かれます。
イタリアの道路は歩道であれ、車道であれ多くが舗石を使用しています。
業界用語ではピンコロといって10cm×10cm×10cmの立方体をしたサイコロ状の石を歩道に敷き詰めていきます。
日本では時に施工性を良くするためや、コストを下げる為にその半分の厚み10cm×10cm×5cmや、3分の1の厚み10cm×10cm×3cmのヒラピン(平らなピンコロの意味)を使用することもあるが、さすがに石の本場のイタリアでは、自動車が走っても摩滅しないように10cm立法のピンコロを使用しています。
この写真は偶然に通りかかった、車も通れる歩道の舗石補修の写真です。
日本の職人さんと同じように糸を張って施工しています。
これならその上を車が走ろうと大丈夫です。
最後の写真は教会前の広場の床ですが、こちらも全て舗石貼りです。何百年にわたり、何千万人、何億人が歩こうとも、靴の底は摩滅しても石は摩滅しないわけですよね。
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