社長コラム 石のことば
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2011/06/25
第65回 「アモイ再訪」

 前回コラムで書きましたが、3・11の当日にアモイに到着しまして、その夕方からの予定は全てキャンセルしました。中国の取引先社長からも心配され連絡もらいましたが会談を断り、ホテルの部屋でNHKBS放送を見ながら日本への連絡を取り続けていました。

 13日の昼にアモイー成田便に乗ったものの乗客はほんの僅か、しかも観光客らしい日本人グループも成田以降の交通網を心配して不安な会話も多く、ひっそりと静まりかえり心細い帰国の機内でした。

 成田からは通常2系統ある鉄路も片方の路線しか動いておらず、また大幅な間引き運転で、都内に着いたのは夜遅くでした。

 翌14日に東京の会社・事業部の社員とミーティングし、今後の中期的な予定や、地震後の各種対策を打合せし、仙台への帰路方法を検討しました。

 調べると時間は不定期でも上越新幹線が動いている事を知り、東京ー新潟、新潟ー酒田、酒田ー山形と新幹線、特急、高速バスの乗り継ぎで山形に入りました。
 山形にも事業部として3拠点あり、こちらは東京同様すぐにライフラインが復活した為、社員とミーティングで今後の打合せを行い、翌日15日ようやく山形ー仙台の高速バスで戻る事ができました。

 その日から数日間は宮城の各店舗を順番に回り、建物の被災状況や社員の安否などのチェック及び避難先の確認等と同時に、個人生活の基本である水や食料の確保や買出しなど、毎日の仕事が今までとは全く違う時間の使い方でした。

 宮城の社員全員に集合をかけ、何とか時短で業務を再開させたのが22日で、社員の無事な顔を確認した時には、肩にかかった緊張が一気に緩んだ気がしました。それから3ヶ月、社員全員で がむしゃらに動いてきたような感じがします。

 
 今回すこし落ち着き、中国側取引先や自社の社員の心配と前回のやり残しの検品、それから今後の対応打合せもあり、あらためてアモイを再訪してきました。
 
 中国にはいつもびっくりさせられますが、今回あらためてアモイの街を見ると、ヨーロッパの街角に見間違うばかりの風景が広がっています。

 そして人々の豊かさを求める情熱が更に加熱し、高級外車や高級レストランなど、もはや震災にあえぐ日本よりも遥かに裕福な中国の一片を見た思いがします。

 中国と日本の関係も今回の震災後は大きく変化していく予感がしました。

 写真1・・・ストーンライフ展示品の検品
 写真2・・・アモイの欧風レストラン街と高層マンション
 写真3・・・希少な調度品を揃えた高級レストラン内部

2011/06/12
第64回 「スラブ材(大理石板、みかげ石板)の破損」

 日本中を震撼させた3・11の大震災から3ヶ月、読者の皆様や当社のお客様にも、いろいろな事が起こり、以前とは違う環境の生活になったことと思います。
 あらためて、ここに震災のお見舞いと一日も早い復興を祈願いたします。

 さて、当日3月11日14時の私の所在地は中国アモイ空港の上空でした。
飛行機が着陸し機外に出ると同時に松島に連絡をいれた時刻は14時40分、地震発生の数分前でした。
その後何も知らずにアモイ空港内で入国審査・パスポートチェックを受け、空港の外に出て東京の会社に電話したのが14時55分、地震発生後10分も経っておらず、電話口からその激震が伝わってきました。

 震源地は宮城沖、最大震度の7が宮城県北部で観測、という報告が第一報でした。
そのあとは当然ながら宮城の各拠点には連絡付かず、辛うじて数分間だけは社員の携帯メールでやり取りしました。

 非常時マニュアルで決めたとおり、各店や各部署からの被災状況を記したメールが遅れ遅れですが届く中、人的被害の有無をまず確認し、建物や展示品・在庫品の被害の連絡も入るようになりました。

 その後数時間は、取引先の方々や知人から電話やメールをもらいましたが、中国に居る私にはいずれも繋がり、逆に不思議がられましたが、事情を話し情報のやり取りをおこないました。
夕方には中国のテレビにも津波の報道が繰り返し放映され、それ以降は全ての予定をキャンセルし、ひたすらNHK国際放送で情報収集と日本への連絡をおこないました。

 12日には今まで連絡が取れた社員、家族、知人とのメールも繋がらなくなり、東京や山形の拠点を経由して連絡と指示打合せをおこないました。
13日昼前にアモイを出発、定刻に成田に着いたものの、成田ー東京は間引き運転、東京から先は全く見通しつかずの状況でした。

 その後いろいろなルートで仙台まで戻りましたが、長くなるので帰路に関しては次の機会にします。
 
 会社は社員全員が無事、各店舗や工場も津波の浸水被害はありませんでした。

 しかしながら、在庫品の大理石スラブ板、みかげ石のスラブ板(2センチや3センチの厚みの板状に半加工した材料)の倒壊、破損が多く発生し、会社の損害は計り知れない被害を受けました。

 再利用できないの?半分くらい使えないの?とよく聞かれますが、ガラスの板と同じと思ってもらえれば分りますが、倒れて割れたスラブ板は粉々になり、模様がつながらなくなり使用不能となります。
逆に割れたスラブ材を片付けるのに、この3ヶ月専属でチームを作ってのぞんだ程です。

 遠くイタリアやスペイン、ギリシャ、ポルトガル、遠くはブラジルやアルゼンチンなどからやってきて当社で出番を待っていたスラブ達が2度の大きな地震(3・11の本震と4・07の余震)で活躍することが出来なくなってしまいました。

 でも、形あるものは壊れる道理で、石は替わりがききますが、替わりがきかないものを失わなかっただけでも恵まれていると思わないといけません。
失ったものや時間は取り戻せませんが、また一歩づつ前に進めていきたいと思います。
このコラムもその想いから4ヶ月ぶりに更新することに致しました。
少しずつ普通に戻してまいります。

2011/01/20
第63回 「勿来の関」

 最近のコラムが紀行文的になってしまってるよ、との読者の暖かい批評を頂きながらも、今回もやっぱり旅のお話しとなります。

 北茨城まで行ったついでに、東北の三関所として有名な勿来の関を見てきました。

 国道6号線を走り、関所と言うからには主要道路又は旧街道の一端にそれが存在するものと思いこみ、特にナビにも入れずに運転していたら、その入り口を危うく通り過ぎてしまいそうになりました。

 6号線からだとかなり登った小高い山の上に勿来の関公園と記念館がありました。

 「なぜこんな場所に関所があるのか?」「旧街道はわざわざ山越えをさせるようなルートだったのか?」「山の下の道を通ればいくらでも関所を破れるな」などと不思議に思いながら見学しましたが、後で詳しく調べると勿来の関の所在地は正式には不明であり、他にもその候補地があったり、逆に歌に詠まれただけでその存在自体が疑問視されたりしているとのことでした。

 ただおよそ1千年以上前から京の都の貴族たちからは「勿来(な来そ=来るなかれ)の関」としてミステリアスでロマン溢れる場所の代表だったようです。

 だから実際にここまで来た実務派の武将源義家の歌がもてはやされたのでしょう。今はその公園に騎馬像が建っています。

 また関東の宮と刻まれた祠が崩れかけて残っていますが、石屋の目から見るとかなり風化がひどく保存状態も悪いので、刻まれた文字の大半は既に読めない状態でした。


 
 また勿来の関から少し足を伸ばして、五浦海岸の六角堂も見学してきました。

 ここは明治時代の美術家であり思想家であった岡倉天心が設計し常住した場所です。

 横山大観や下村観山などあまり美術史に造詣が深く無くても知っている著名人たちもここに来ていました。

 ここでは岡倉天心の辞世「我逝かば 花な手向けそ 浜千鳥・・・」で有名な意外に小ぶりなお墓と、いち早く世界史の中でアジアの自立独立を見据えた「亜細亜は一つなり」の4mを越す一枚石の石碑の巨大さに感心してきました。

2010/12/18
第62回 「アベヒロマサ氏アトリエ訪問」

 以前このコラム(第32回 彫刻家アベヒロマサ氏)でも書きましたが、石彫家のアベヒロマサ氏とは、その後もいろいろとお付き合いをさせてもらっています。

  
 実はストーンライフのピザ石窯で行ったピザ焼き実演でも、アベヒロマサ氏のお手伝いを頂きました。
 本格的なピザ生地の作り方やねかせ方、またカリッとモチッとが同居した焼き方、具材の合わせ方など、本格シェフさながらの出来上がりに、社内はもちろん来店されたお客様にも大好評でした。

 彼の本職は当然、石の彫刻家と言うのが本来の肩書きですが、実はイタリアでの修行時代に、本場イタリアのレストランでアルバイトをしていたそうです。

 本人に言わせると「お金を稼ぐこともありましたが、何より食事にありつける事が重要でした。飢える事が一番不安でした。」と語っていますが、そのアルバイトでかなり本格的な調理を学んだようです。

 芸術と料理のセンスはどこかで繋がっているのか、彼の料理は本当にプロの域です。

 季節と地元の旬に合わせた食材を利用しての彼のバジルペーストは、私の一番のお気に入りです。初めてイタリアで食べたジェノベーゼスパゲッティの味が忘れられず、いろんなイタリアレストランを回りましたが、アベヒロマサ氏のジェノベーゼはまさに北イタリア ジェノバ風の本物の味です。ようやくあの感激と再会することが出来ました。


 また、彼は石彫の他にも木彫や金属もやりますし、デザインや平面も行います。

 今はトロンプールイユ(だまし絵)の技法を相談しています。


 さて、そのアベヒロマサ氏が茨城県かすみがうら市に転居し、近くにアトリエを準備しているとの事で訪問してきました。

 そこは元工場だったようで、90坪ほどの作業場然とした外観ですが、基礎も鉄骨もしっかりしていて、頑丈な建物です。

 中に店舗兼展示場を作り、後ろに陶芸の作業場(アベヒロマサ氏の奥さんが陶芸家)や金属加工場、外には石の置き場と石作業場など全て置けるだけのスペースがあります。


 今回ここの内装(大工仕事)や設備(トイレや水回り)も全てアベヒロマサ氏が自分で行っています。彼の友人たちも週末の都度手伝いに来ているようですが、まるで家一軒自分たちで建てるくらいの内容の作業をしています。

 今回訪問時はまだ途中だったのでまた完成後に訪問しようと思いますが、少しずつ外観等もいじって、将来は全く別な建物としてランドマークになると良いなと思います。


 アトリエ見学後、玄関にアベヒロマサ氏の彫刻と奥様の陶芸作品が並ぶ彼の新居に訪問し、彼の調理したイタリアンのフルコースを美味しくご馳走になりました。またピザ石窯で丸ごと焼いたかぼちゃで、彼の奥さんが作ったかぼちゃプリンで締めて、目も舌もおなかも大大満足の茨城かすみがうらアトリエ訪問でした。
 
 本当にお世話になりました。
 

2010/12/01
第61回 「世界遺産石見銀山」

前回に続き、島根県訪問の事を書いていきます。


 出雲大社と同じように島根で有名な場所、言わずと知れた世界遺産の石見銀山もハードスケジュールながら見てきました。


 ここの凄さは、他の金山、銀山、あるいは炭鉱など、鉱山の最盛期には町も賑やかで人が多く集まっていても、一たびその産出量が減り採掘が少なくなると、とたんに町は寂れ人も居なくなるところが多いのに、ここ石見銀山は今でも大森地区、宮ノ前地区など人の生活が維持され現在まで続いてきている事です。

 また、普通の鉱山は樹木が伐採され山肌が荒れて無残な自然が残るだけという景色が多いのですが、ここは森も水も豊かなままで、逆に言うとどこが鉱山入り口か判らないほど自然と一体化した銀山である事です。


 歴史的には大内氏、尼子氏、毛利氏、豊臣氏の所有を経て、徳川家康のものとなり、のちに佐渡の金山奉行などを務めた大久保長安がこの石見銀山の初代奉行として支配をしていました。
 
  
 17世紀当時の世界の銀産出量の3分の1が日本で採れ、そのうち約2割がこの石見銀山産出であったと資料にあり、世界の銀相場の変動はまさに石見にかかっているという状況でした。
  

 長年の疑問であった江戸(関東)の金本位、大阪(関西)の銀本位の由来もこの辺にあったものと思います。

 金山は佐渡や奥州に多く、江戸には自然と金が集まり、銀山は石見や生野(兵庫県)などに多く、銀は逆に大阪に集まり、それぞれの貨幣経済を展開していった。


 そこから両替商というビジネスが発生する要因になったのでしょうが、歴史や経済がいろいろな所につながる面白さは、いつもの事ながら勉強になる思いです。


 
 前回と今回で初めて訪れた島根県大急ぎの旅の巻の完了です。

2010/11/11
第60回 「古代のM&A、出雲神話に触れて」

 大変有難い事に仕事や旅行で、日本各地47都道府県のうちのほとんどを観光したり、訪問したりしています。

 ところが、あらためて思い返してみると、島根県と高知県だけには行っておらず、またそこを通り過ぎるという事もありませんでした。
 別に全国制覇しようとの考えではありませんが、以前から訪問したかったその残りの内の一つ島根県に今回行く事が出来ました。


 当社系列の別法人であった(株)松島産業造園部(後に(株)まつしまとなり、2008年に当社と合併吸収)が、かつて主力商品としていた庭石や灯篭の一大産地がこの島根県にあります。

 出雲石または来待石といわれ、島根県松江市宍道町来待地区で採れる灰褐色の細粒砂岩で、侘び寂びの日本庭園によく似合う、時間をおくと古びた感じが漂う日本有数の石灯篭です。
 今回その加工場までは行けませんでしたが、町のいたる所に灯篭の産地らしさがありました。


 また、島根県といえば何といっても出雲大社です。


 大注連縄がそのシンボルになっていますが、神社への参詣と合わせその歴史に興味があり、隣の歴史博物館も見学してきました。


 復元予想された本殿の模型や、出雲の神話など大変に興味深い展示や解説がありました。


 その中で、出雲の神である大国主命の支配地が意外に広範囲に亘っている事が記されていました。
 いわゆる出雲族が支配していたエリアですが、海岸沿いでは現在の新潟県から富山、石川、福井、京都、兵庫、鳥取、島根。内陸部も埼玉、群馬、東京、長野。近畿地方では滋賀、奈良、和歌山、大阪、岡山。その他四国の愛媛の一部とかなりの広がりを見せています。
 出雲族の各地の支配の仕方は想像するしかないのですが、比較的穏やかな管理方法で、現地の長官にある程度任せていた地方分権制をとっていたように思われます。


 つまりそれぞれの支店長(長官)が実務を運営し、年に一度本社(出雲)に集まり、役員会を開くようなものだったのでしょう。
 旧暦10月が地方では神無月、出雲では神在月となる「カミ」とは「神」でなく「長官(カミ)」という意味だったのではないか。
 また、その後天孫族(天照大御神の系列)との国譲り神話も今の時代のM&Aであり、平和裏に行われた吸収合併だったのではないか。

 その旧オーナー、旧経営者の引退場所が豪華な出雲大社ではなかったのか、などと楽しい想像が膨らむ、古代を少しだけ垣間見た初めての島根県訪問となりました。  

2010/10/02
第59回 「崇武鎮」

 中国の南部、福建省の中央地区に泉州市が在ります。

 その泉州市の管轄下に恵安県(中国は市と県が逆の立場です)があり、更にその恵安県の行政下に崇武鎮(村と言うよりは町か市くらいの大きさですが)という所があり、石材工場が約300軒集中しています。

 我われ石屋さんは、石材加工の確認の為にこの崇武鎮をよく訪問します。

 当社の100%子会社 大志貿易が在る福建省アモイ市からは高速道路で約2時間、最近開通した新幹線を利用しても駅からの車利用と合わせ同じく2時間ほどの所にあります。

 以前から、何故この崇武にそんなに石屋が集中したのか、なぜ世界的にも大きな石材産地を形成したのか疑問には感じていました。


 今回、いつものように石材加工の確認を終えて、天気も良かったので船から崇武を眺める機会を持ちました。

 この辺りは昔から海運業が盛んで、各地との交流が盛んだったところです。

 それだけに、海からやってくる外夷の恐怖もあったのだと思います


 写真1は海からでなければ見られない、崇武古城の突端付近です。

 まるで万里の長城のように、石の擁壁が続き、突端に巨大な灯台と周りにはたくさんの守護像が立っています。

 もちろん近くに白御影石の丁場(採掘所)があることも要因ですが、このような巨大造作技術を必要とされる場所だった為に、ますます石加工の技術が集積していったものと思います。

 そう言えば日本の石材産地も城郭石垣技術から進んでいった地区が非常に多いです。


 そんな巨大加工技術とともに、写真2は食べ物の見本(メニュー見本)を全て、石で作ったのが飾られていました。こちらはとても細かい技術です。ホテル内のレストランへと続くロビーにありました。


 最後の写真は、その崇武鎮で最も新しい、(自称?)5つ星のホテル正面です。

 10年前は村の民宿を少し良くした程度のホテルしかなかったのですが、先月ここを見てまたしても中国の成長の早さに驚いてきました。

2010/09/09
第58回 「知床旅情」

 「知床の岬に ハマナスの咲く頃  思いだしておくれ 俺たちのことを
  飲んで騒いで 丘に登れば 遥かクナシリに 白夜は明ける」

 何度となく北海道には行きましたが、今まで知床半島に足を踏み入れたことがありませんでした。
 
 今回、超過密スケジュールでしたが、念願の知床世界遺産を見てきました。


 有名な阿寒湖、摩周湖の更に先(東側)、知床半島のほぼ中央に、ウトロと言う場所があって、そこから知床の岬を巡る知床遊覧船が出ています。

 おーろら号と言う遊覧船の発着広場に写真の森繁久弥歌碑が建っていました。

 
 冬には流氷が漂着し、一面の氷の海を見せてくれるそうですが、この日は内地に劣らぬ真夏の日差しで、水が恋しく海岸に下りてみました。
  
 何か今まで見た海岸風景と違う違和感。
 
 海岸に降り立って足の感触で分りました。

 
 砂の海岸でなく、砂利の海岸、特に全て玉石が続く海岸線です。

 まるで川や河口で見られる丸い石が延々と続いています。

 (そのまま、「知床砂利石」と銘打って販売出来そうな・・・なんて不埒な事は考えていませんが。)

 これは近くの花崗岩層が海に崩れて、よほどの荒波に揉まれて丸くなったものか、或いは、遠くロシアの川岸から流氷に乗って流れ着いたものか、いずれにしろ全部が丸い玉石海岸でした。


 最後の写真は世界遺産 知床五湖に映った羅臼岳です。

 「別れの日は来た ラウスの村にも  君は出て行く 峠を越えて
  忘れちゃ嫌だよ 気まぐれカラスさん  私を泣かすな 白いカモメよ」

 本当にあっという間のお別れでしたが、北海道の広さを実感した旅程でした。

2010/08/15
第57回 「日本のストーンサークル」

 ストーンサークルと言うと有名なのがイギリスのストーンヘンジなど日本以外の太古の遺跡を思い浮かべますが、日本にも多くのストーンサークルがあるのを最近知りました。

 観光を兼ねて夏の八甲田山系に登った帰りに(もちろん車とロープウエイが中心で歩きはほんの少々です)、秋田県の十和田インターのすぐ近くにある大湯環状列石に偶然立ち寄りました。

 今から約4,000年前縄文時代後期の遺跡で、万座と野中堂2ヶ所の環状列石群が見つかり、復元展示されていました。

 その目的や使用など細かいところは解明されていませんが、平均で1個30 、最大のものは200 の物もありその数は全部で7,200個が見つかっています。

 今風に言えば総重量216トン、20トントレーラーで運んでも11台、4トン車では54台分を、約6 離れた安久谷川から人力で運んだエネルギーを思うと、彼らにとっては何かとても大きな意味があったはずです。

 またその石群は全て同一石種で、閃緑岩系の玉石で、青緑みかげ石です。
この川からは、白色の花崗岩系石材や黒色の安山岩系石材も有った筈ですが、この綺麗な石だけにこだわったようです。

 一部にはその石の下から人骨が発見され、お墓として使われていましたし、特に性別、年齢、地位などの違いで何種類かの集合墓があった可能性もあるようで、まさに当時の人々の死生観、死者への弔い、先祖供養(まだ仏教思想は生まれていませんが)など普遍の行動が伺えます。

 また、祭祀に使われたであろう遺跡や、太陽信仰としての日時計型配石もあり、その中心から見ると夏至の太陽の沈む方向と一致しているそうです。

 古代の人々のパワーが石に宿ったまま、4千年の時を経てきている現実にしばし圧倒された大湯環状列石遺跡見学のいっときでした。

2010/07/28
第56回 「高尾山の奉納石材」

 もう少しで35℃以上の猛暑日となる一歩手前、都内で34℃を記録したその日に、初めて高尾山に登りました。

 山頂までの道すがらあまりの人の多さにびっくりしました。
それはまるで駅前の商店街か、人気テーマパークさながらの人の流れでした。

 聞いてはいましたがまさに高尾山ブームです。


 しかしながらこれは今いっときの事だけでなく、遠く何百年にも亘って多くの人々から愛され畏敬されてきた信仰の対象でもあります。

 それはいたる所に石碑・石像・奉納石として現代の人々に伝えられています。

 どうしても石屋の目で見てしまい、これは秩父の青石かな、これは神奈川の小松石、こちらは伊豆の六方石かと石の来歴や由来を辿りながらの登山でした。

 中には仙台石といわれる石巻産の石材や岡山県の万成と言う石もあり、本当に日本中から信仰寄進の為に集められ、そしてこの急な勾配を人力で運んできたことを思うと、何か琴線に触れるものがありました。

 更には開山者を祀る祠と石像はやはり中国の石でした。
 写真はありませんが引っ張り蛸の赤い石像はインド産です。
 
 日本だけでなく世界中から石材を運び、この高尾山の登山道に設置奉納されたことになります。

 そんな中、現代の奉納風景の一つに企業の寄進や広告を兼ねた階段石もありました。

 参考までに紹介しておきます。

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