社長コラム 石のことば
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2011/09/06
第70回 「恐山霊場その2」

 恐山で有名なのが「イタコの口寄せ」といわれる、霊媒師の語りです。

 この日は、イタコの小屋が2つ境内に設置されており、それぞれに20人位づつ列を作って希望者が待っている状況でした。

 イタコの口寄せは本質的にはお寺とは関連が無く、又宗教とも一線を画すものですが、民間習俗或いは心の安定の為の仕組みの一つとして、根強く一般に受け入れられている風習です。

 風や直射日光、雨や寒さを防ぐために、掘っ立て小屋のような簡易建物の奥に齢七十歳を超すだろうと思われるおばあさんが、地元の下北弁で故人の霊のかわりに生者に語りかける。そこには誰にも共通する話題もあるだろうし、故人と家族しか知らない話題もあるでしょうが、占いや予言と同じくそれについては信じる人、信じない人が居るのは確かです。

 ここでは、その件は深く触れないでおきますが、その風習は仏教や各宗教が入ってくる遥か以前の縄文時代や弥生時代の日本人から、連綿として引き継がれたもののような気がしました。
 それを行ってきたのはシャーマンとか祈祷師とか云われる人たちですが、少なくとも邪馬台国の女王卑弥呼の時代には現実に日本に存在していました。

 物の本によれば、卑弥呼というと勝手に妙齢の女性を想像しますが、実際にはかなり高齢だったとの見方も有り、ちょうどイタコのおばあさん達のようなものだったのでしょうか? 卑弥呼=イタコのイメージは意外と真実味があるかもしれませんね。

 また、石の地蔵(?)に服を着せたり、よだれかけを掛けたり、頭巾を被せたりするのも、厳密には仏教以前の民間習俗から来ているものなのでしょう。
 信仰と信心、宗教と習俗などあらためてその違いを漠然と考える事ができました。


 イタコの口寄せは、代金(心付け)は一霊に付き3千円から5千円だとのことでした。
 私も15年前に父が向こうに逝ってますので、口寄せで父の言葉を聞いて見たいと思いましたが、さすがに長い列に並んで待つ時間が無く、今回は実現しませんでした。

2011/08/18
第69回 「恐山霊場」

 青森県の下北半島には25,6年前にむつ市まで行った記憶はありますが、その先の恐山までは行った事がなく、有名な霊場はテレビや写真で見るだけの場所でした。

 今回は25年前と違い、八戸からの太平洋側ルートを通り、原発で有名な六ヶ所村、東通村を経由してむつ市に入りました。

 途中の六ヶ所村や東通村は、本来なら本州最北の人口の少ないエリアで、道路や施設も期待出来ない場所のはずですが、原発の恩恵で道路はくまなく整備され、中学校や村庁舎も近代的な建物で、原発と地元の融合が見て取れました。
 しかしながら、今回の福島原発事故による影響でこれからは、この六ヶ所村・東通村にもいろんな意見と反響が押し寄せ、今後が大変だろうと思いながら通り過ぎてきました。



 目指すむつ市に入ると、先に見えてくる大きな山は釜臥山ですが、これは恐山山地を形作っている八つの山の一つであり最大の山です。

釜臥山を目指そうと思ったら、恐山への道案内は釜臥山のずっと右側(北方面)を指しており、一瞬迷ったかと思いましたが、途中からは石の一里塚や道端の地蔵様が迎えてくれ、一本道を登り下りして辿り着いた場所が霊場恐山でした。

 
 釜臥山をはじめ地蔵山、鶏頭山など八峰に囲まれた中にカルデラ湖の宇曽利湖があり、その湖の綺麗な色と穏やかな景色がまるで極楽浄土のように、そしてその周辺の荒涼とした火山ガスの噴出する岩肌の一帯が地獄のように思われるところから、霊場として参拝されるようになったものです。

 写真1は中央の地蔵殿の後ろから、正面の参道とその先に宇曽利湖、すぐ右手が岩肌のエリアです。(湖の奥、山頂が尖って電波塔のようなものが建っているのが釜臥山です。)

 写真2は極楽のような宇曽利湖湖畔に供養のため供えられた風車の一部と白い砂浜。

 写真3は地獄谷と名付けられた火山岩エリアです。


 地獄谷の石は孔の多い、軽石の類がほとんどで、いわゆる溶岩や火砕流が固まった岩石の種類です。硫黄など火山ガスが噴出している事もあり、この軽石のある所ではほとんど植物も生えません。それが荒涼とした風景につながります。

 ところが宇曽利湖の湖畔も実はこの軽石が粉砕された砂質で、こちらは逆に水の碧色を引き立たせて、とても美しく感じられます。


 同じ火山岩・軽石の影響が、好い事に見えたり、逆だったりと、まるで今回の原発問題に何か通じるようで複雑な思いを抱きました。
 
 
 有名なイタコの話は次回とします。

2011/08/01
第68回 「甲州紀その2 勝沼」

 甲州紀の続きは ワインのお話しにします。

 山梨県と言って思い付く事の中に、やはり甲州葡萄と勝沼ワインがあるかと想います。

 なかなかフランスやイタリアのワイナリーに行けない身にとっては、国内でのワイナリー訪問はとても身近で体験可能な楽しみの一つです。

 今回は勝沼ぶどうの丘の地下貯蔵庫でワインの試飲が出来るのが、最大の楽しみでした。

 見渡す限りの斜面の遥か先まで葡萄の棚が並んでおり、まさに日本最大の葡萄産地でした。

 その一角に公営の施設「勝沼ぶどうの丘」があり、レストランや資料館、お土産売り場などの施設の他に、地下に目指す貯蔵庫があります。

 ここでは近隣のあらゆるワイナリーから持ち寄った、ほとんどの銘柄のワインを試飲できます。

 試飲方法ですが、まずは1,100円で「タートヴァン」という金属製の試飲用カップを購入します。

 あとは白ワインコーナー約100本、赤ワインコーナー同じく約100本、そしてロゼワインコーナー約30本ほどが樽の上で開栓させており、自由に注いで味を見るのですが、何本も飲まないうちに、前の味を忘れてしまい、比べられなくなります。

 何回でも何時間でも飲み続けて良いですよ、と店の方に言われたものの、あっちいったりこっちいったりしているうちに適当に酔ってしまい、好みのワインを探すのが難しかったです。

 一応、私のお気に入りは、メルロー100%で樽貯蔵の2008年ビンテージ、同じく勝沼産の甲斐ノワール100%2008年です。(でも200本以上の中でおそらく30種も試飲出来なかったのと、最後は舌も酔ってきたのでいいかげんかもしれません)

 
 ワイン試飲貯蔵庫の傍らには、勝沼ワインの歴史が紹介させていましたが、明治初年、高野何某(なにがし)と土屋何某(なにがし)という二人の若者がフランスに言葉も分らず留学し経験してきた事を、当時の勝沼の人々が受け継ぎ100年以上の時間とともに、日本のワインをリードしてきた事は、何事も創業期の人々の熱さをおいては語れない情感やその風景までもが感じ取られ、つまみを持ち込めないワインの心のつまみとして、更に試飲が進んだ体験でした。

2011/07/15
第67回 「甲州紀その1 身延山」

 またまた、紀行文になってしまい数少ない読者の一部から、あたたかい批判を浴びるかもしれませんが、武田信玄で有名な山梨県に湯治を兼ねて行って来ました。

 初めに訪れたのは、身延山久遠寺です。

 ここは日蓮が晩年を過ごした為、日蓮宗の総本山となり今も同宗の信者が絶え間無く参詣に来ている場所です。

 今まで宗派の本山としては、比叡山延暦寺、越前永平寺、京都の東西本願寺など観光として参拝させてもらいましたが、身延山はいささか今までの各寺院とは違うような感じを受けました。

 あれだけ有名なので観光客がかなり多いだろうと思っていましたが、奥深い場所のせいか、或いは日蓮宗の教義によるものか、観光客よりも白装束の信者のお参りが多く目に付き、観光寺と言うよりは本山の役割りのほうが多い場所だと感心しました。

 日蓮が故郷千葉県を想い何度も登った奥の院は歩けば2時間半、ロープウエイならたったの7分で、当然楽なほうで登り(乗り)ましたが、その上の眺望はまさに最高でした。

 残念ながら富士山は半分雲に覆われ、その全貌は現しませんでしたが、素晴らしい景色に心洗われる思いでした。

 いつもの事ですが、重い石を頂上付近まで運び、奉納する作業は、昔も今も本当に大変な仕事です。歴代の石工たちの作業や奉仕ぶりがこの奉納石に残されています。


 奥の院の一番高いところに、日蓮の言葉として親を想う石碑がありました。
 この石は関東では神奈川の小松石と並ぶ銘石、山梨県で採れる山崎石で造られていました。甲州小松とも言われグレー系の安山岩でその品の好い石質に刻まれた文字も大変気に入り思わず写してきました。ここにその文章を紹介しておきます。

 孝と申すは高なり
 山高けれども
 孝よりは高からず

 又孝とは厚なり
 地厚けれども
 孝よりは厚からず

 心に残る名文でした。

2011/07/05
第66回 「古川店」

 今回オープンした大崎市古川に出店を決めたのは、実は5年越しの決断でした。

 2005年から2006年にかけて、次の候補地としていくつかのエリアが浮かびましたが、その一つが古川エリアでした。

 何度となく現地に足を運び、いくつかの候補地の中に現在の場所もありましたが、その時点では他の会社が賃借中であり、その後もなかなか縁が無く決まらずに数年が経ってしまいました。その間は新店舗エリアとして山形店、天童店など山形方面に目を向けておりました。

 昨年2010年10月頃、以前から知っているこの地に今回は複数の縁があり出店決定、斬新なリフォームと新企画で今までに無い店舗を造り、オープンを2011年4月目標として進めてきました。

 3月11日の地震当日は建物リフォーム引渡しのわずか10日程前でほぼ工事は完了しており、予定より順調な仕上がりとなっていました。想定外の地震が足場や看板を傷付け、一部の資材が保管場所(海沿いの倉庫)で流出したりしましたが、それでも各関係者の皆様のおかげで早い段階で工事を再開し4月末に引渡しを受けました。

 オープンの時期をいつにするか、かなり迷いましたが、看板が見えるようになってから、開店の問い合わせや直接の訪問などが多く、地域の要望が感じられ、5月下旬にオープン致しました。

 古川店の特徴としては
(1)墓石店舗の「まつしまメモリーランド古川店」と薪ストーブ・ガーデニングの「ストーンライフ宮城」の併設店舗である事。
(2)同じくスタッフも墓石材と生活・建築石材の両方を取り扱えるノウハウを有しているスタッフを揃えている事。
(3)屋内天井が銀河(天の川)をイメージし、LEDのクリスタルライトで北極星と北斗七星、カシオペア、オリオンの各星座を表現している事。
(4)彫刻家アベヒロマサ氏にお願いして、正面飾り窓のショーウインドウに立体騙し絵風の「桜満開のバラと花の霊園」「薪ストーブのあるリビング」を初チャレンジによりディスプレイした事。
(5)もちろん、店内は居心地の良いガラス張り屋内ショールームのまつしまメモリーランドスタイルを継承し、居心地の良さを更にバージョンアップさせている事。

 
 是非とも一度古川店に足を運び、御覧頂けたらと思います。

 お待ちしております。

2011/06/25
第65回 「アモイ再訪」

 前回コラムで書きましたが、3・11の当日にアモイに到着しまして、その夕方からの予定は全てキャンセルしました。中国の取引先社長からも心配され連絡もらいましたが会談を断り、ホテルの部屋でNHKBS放送を見ながら日本への連絡を取り続けていました。

 13日の昼にアモイー成田便に乗ったものの乗客はほんの僅か、しかも観光客らしい日本人グループも成田以降の交通網を心配して不安な会話も多く、ひっそりと静まりかえり心細い帰国の機内でした。

 成田からは通常2系統ある鉄路も片方の路線しか動いておらず、また大幅な間引き運転で、都内に着いたのは夜遅くでした。

 翌14日に東京の会社・事業部の社員とミーティングし、今後の中期的な予定や、地震後の各種対策を打合せし、仙台への帰路方法を検討しました。

 調べると時間は不定期でも上越新幹線が動いている事を知り、東京ー新潟、新潟ー酒田、酒田ー山形と新幹線、特急、高速バスの乗り継ぎで山形に入りました。
 山形にも事業部として3拠点あり、こちらは東京同様すぐにライフラインが復活した為、社員とミーティングで今後の打合せを行い、翌日15日ようやく山形ー仙台の高速バスで戻る事ができました。

 その日から数日間は宮城の各店舗を順番に回り、建物の被災状況や社員の安否などのチェック及び避難先の確認等と同時に、個人生活の基本である水や食料の確保や買出しなど、毎日の仕事が今までとは全く違う時間の使い方でした。

 宮城の社員全員に集合をかけ、何とか時短で業務を再開させたのが22日で、社員の無事な顔を確認した時には、肩にかかった緊張が一気に緩んだ気がしました。それから3ヶ月、社員全員で がむしゃらに動いてきたような感じがします。

 
 今回すこし落ち着き、中国側取引先や自社の社員の心配と前回のやり残しの検品、それから今後の対応打合せもあり、あらためてアモイを再訪してきました。
 
 中国にはいつもびっくりさせられますが、今回あらためてアモイの街を見ると、ヨーロッパの街角に見間違うばかりの風景が広がっています。

 そして人々の豊かさを求める情熱が更に加熱し、高級外車や高級レストランなど、もはや震災にあえぐ日本よりも遥かに裕福な中国の一片を見た思いがします。

 中国と日本の関係も今回の震災後は大きく変化していく予感がしました。

 写真1・・・ストーンライフ展示品の検品
 写真2・・・アモイの欧風レストラン街と高層マンション
 写真3・・・希少な調度品を揃えた高級レストラン内部

2011/06/12
第64回 「スラブ材(大理石板、みかげ石板)の破損」

 日本中を震撼させた3・11の大震災から3ヶ月、読者の皆様や当社のお客様にも、いろいろな事が起こり、以前とは違う環境の生活になったことと思います。
 あらためて、ここに震災のお見舞いと一日も早い復興を祈願いたします。

 さて、当日3月11日14時の私の所在地は中国アモイ空港の上空でした。
飛行機が着陸し機外に出ると同時に松島に連絡をいれた時刻は14時40分、地震発生の数分前でした。
その後何も知らずにアモイ空港内で入国審査・パスポートチェックを受け、空港の外に出て東京の会社に電話したのが14時55分、地震発生後10分も経っておらず、電話口からその激震が伝わってきました。

 震源地は宮城沖、最大震度の7が宮城県北部で観測、という報告が第一報でした。
そのあとは当然ながら宮城の各拠点には連絡付かず、辛うじて数分間だけは社員の携帯メールでやり取りしました。

 非常時マニュアルで決めたとおり、各店や各部署からの被災状況を記したメールが遅れ遅れですが届く中、人的被害の有無をまず確認し、建物や展示品・在庫品の被害の連絡も入るようになりました。

 その後数時間は、取引先の方々や知人から電話やメールをもらいましたが、中国に居る私にはいずれも繋がり、逆に不思議がられましたが、事情を話し情報のやり取りをおこないました。
夕方には中国のテレビにも津波の報道が繰り返し放映され、それ以降は全ての予定をキャンセルし、ひたすらNHK国際放送で情報収集と日本への連絡をおこないました。

 12日には今まで連絡が取れた社員、家族、知人とのメールも繋がらなくなり、東京や山形の拠点を経由して連絡と指示打合せをおこないました。
13日昼前にアモイを出発、定刻に成田に着いたものの、成田ー東京は間引き運転、東京から先は全く見通しつかずの状況でした。

 その後いろいろなルートで仙台まで戻りましたが、長くなるので帰路に関しては次の機会にします。
 
 会社は社員全員が無事、各店舗や工場も津波の浸水被害はありませんでした。

 しかしながら、在庫品の大理石スラブ板、みかげ石のスラブ板(2センチや3センチの厚みの板状に半加工した材料)の倒壊、破損が多く発生し、会社の損害は計り知れない被害を受けました。

 再利用できないの?半分くらい使えないの?とよく聞かれますが、ガラスの板と同じと思ってもらえれば分りますが、倒れて割れたスラブ板は粉々になり、模様がつながらなくなり使用不能となります。
逆に割れたスラブ材を片付けるのに、この3ヶ月専属でチームを作ってのぞんだ程です。

 遠くイタリアやスペイン、ギリシャ、ポルトガル、遠くはブラジルやアルゼンチンなどからやってきて当社で出番を待っていたスラブ達が2度の大きな地震(3・11の本震と4・07の余震)で活躍することが出来なくなってしまいました。

 でも、形あるものは壊れる道理で、石は替わりがききますが、替わりがきかないものを失わなかっただけでも恵まれていると思わないといけません。
失ったものや時間は取り戻せませんが、また一歩づつ前に進めていきたいと思います。
このコラムもその想いから4ヶ月ぶりに更新することに致しました。
少しずつ普通に戻してまいります。

2011/01/20
第63回 「勿来の関」

 最近のコラムが紀行文的になってしまってるよ、との読者の暖かい批評を頂きながらも、今回もやっぱり旅のお話しとなります。

 北茨城まで行ったついでに、東北の三関所として有名な勿来の関を見てきました。

 国道6号線を走り、関所と言うからには主要道路又は旧街道の一端にそれが存在するものと思いこみ、特にナビにも入れずに運転していたら、その入り口を危うく通り過ぎてしまいそうになりました。

 6号線からだとかなり登った小高い山の上に勿来の関公園と記念館がありました。

 「なぜこんな場所に関所があるのか?」「旧街道はわざわざ山越えをさせるようなルートだったのか?」「山の下の道を通ればいくらでも関所を破れるな」などと不思議に思いながら見学しましたが、後で詳しく調べると勿来の関の所在地は正式には不明であり、他にもその候補地があったり、逆に歌に詠まれただけでその存在自体が疑問視されたりしているとのことでした。

 ただおよそ1千年以上前から京の都の貴族たちからは「勿来(な来そ=来るなかれ)の関」としてミステリアスでロマン溢れる場所の代表だったようです。

 だから実際にここまで来た実務派の武将源義家の歌がもてはやされたのでしょう。今はその公園に騎馬像が建っています。

 また関東の宮と刻まれた祠が崩れかけて残っていますが、石屋の目から見るとかなり風化がひどく保存状態も悪いので、刻まれた文字の大半は既に読めない状態でした。


 
 また勿来の関から少し足を伸ばして、五浦海岸の六角堂も見学してきました。

 ここは明治時代の美術家であり思想家であった岡倉天心が設計し常住した場所です。

 横山大観や下村観山などあまり美術史に造詣が深く無くても知っている著名人たちもここに来ていました。

 ここでは岡倉天心の辞世「我逝かば 花な手向けそ 浜千鳥・・・」で有名な意外に小ぶりなお墓と、いち早く世界史の中でアジアの自立独立を見据えた「亜細亜は一つなり」の4mを越す一枚石の石碑の巨大さに感心してきました。

2010/12/18
第62回 「アベヒロマサ氏アトリエ訪問」

 以前このコラム(第32回 彫刻家アベヒロマサ氏)でも書きましたが、石彫家のアベヒロマサ氏とは、その後もいろいろとお付き合いをさせてもらっています。

  
 実はストーンライフのピザ石窯で行ったピザ焼き実演でも、アベヒロマサ氏のお手伝いを頂きました。
 本格的なピザ生地の作り方やねかせ方、またカリッとモチッとが同居した焼き方、具材の合わせ方など、本格シェフさながらの出来上がりに、社内はもちろん来店されたお客様にも大好評でした。

 彼の本職は当然、石の彫刻家と言うのが本来の肩書きですが、実はイタリアでの修行時代に、本場イタリアのレストランでアルバイトをしていたそうです。

 本人に言わせると「お金を稼ぐこともありましたが、何より食事にありつける事が重要でした。飢える事が一番不安でした。」と語っていますが、そのアルバイトでかなり本格的な調理を学んだようです。

 芸術と料理のセンスはどこかで繋がっているのか、彼の料理は本当にプロの域です。

 季節と地元の旬に合わせた食材を利用しての彼のバジルペーストは、私の一番のお気に入りです。初めてイタリアで食べたジェノベーゼスパゲッティの味が忘れられず、いろんなイタリアレストランを回りましたが、アベヒロマサ氏のジェノベーゼはまさに北イタリア ジェノバ風の本物の味です。ようやくあの感激と再会することが出来ました。


 また、彼は石彫の他にも木彫や金属もやりますし、デザインや平面も行います。

 今はトロンプールイユ(だまし絵)の技法を相談しています。


 さて、そのアベヒロマサ氏が茨城県かすみがうら市に転居し、近くにアトリエを準備しているとの事で訪問してきました。

 そこは元工場だったようで、90坪ほどの作業場然とした外観ですが、基礎も鉄骨もしっかりしていて、頑丈な建物です。

 中に店舗兼展示場を作り、後ろに陶芸の作業場(アベヒロマサ氏の奥さんが陶芸家)や金属加工場、外には石の置き場と石作業場など全て置けるだけのスペースがあります。


 今回ここの内装(大工仕事)や設備(トイレや水回り)も全てアベヒロマサ氏が自分で行っています。彼の友人たちも週末の都度手伝いに来ているようですが、まるで家一軒自分たちで建てるくらいの内容の作業をしています。

 今回訪問時はまだ途中だったのでまた完成後に訪問しようと思いますが、少しずつ外観等もいじって、将来は全く別な建物としてランドマークになると良いなと思います。


 アトリエ見学後、玄関にアベヒロマサ氏の彫刻と奥様の陶芸作品が並ぶ彼の新居に訪問し、彼の調理したイタリアンのフルコースを美味しくご馳走になりました。またピザ石窯で丸ごと焼いたかぼちゃで、彼の奥さんが作ったかぼちゃプリンで締めて、目も舌もおなかも大大満足の茨城かすみがうらアトリエ訪問でした。
 
 本当にお世話になりました。
 

2010/12/01
第61回 「世界遺産石見銀山」

前回に続き、島根県訪問の事を書いていきます。


 出雲大社と同じように島根で有名な場所、言わずと知れた世界遺産の石見銀山もハードスケジュールながら見てきました。


 ここの凄さは、他の金山、銀山、あるいは炭鉱など、鉱山の最盛期には町も賑やかで人が多く集まっていても、一たびその産出量が減り採掘が少なくなると、とたんに町は寂れ人も居なくなるところが多いのに、ここ石見銀山は今でも大森地区、宮ノ前地区など人の生活が維持され現在まで続いてきている事です。

 また、普通の鉱山は樹木が伐採され山肌が荒れて無残な自然が残るだけという景色が多いのですが、ここは森も水も豊かなままで、逆に言うとどこが鉱山入り口か判らないほど自然と一体化した銀山である事です。


 歴史的には大内氏、尼子氏、毛利氏、豊臣氏の所有を経て、徳川家康のものとなり、のちに佐渡の金山奉行などを務めた大久保長安がこの石見銀山の初代奉行として支配をしていました。
 
  
 17世紀当時の世界の銀産出量の3分の1が日本で採れ、そのうち約2割がこの石見銀山産出であったと資料にあり、世界の銀相場の変動はまさに石見にかかっているという状況でした。
  

 長年の疑問であった江戸(関東)の金本位、大阪(関西)の銀本位の由来もこの辺にあったものと思います。

 金山は佐渡や奥州に多く、江戸には自然と金が集まり、銀山は石見や生野(兵庫県)などに多く、銀は逆に大阪に集まり、それぞれの貨幣経済を展開していった。


 そこから両替商というビジネスが発生する要因になったのでしょうが、歴史や経済がいろいろな所につながる面白さは、いつもの事ながら勉強になる思いです。


 
 前回と今回で初めて訪れた島根県大急ぎの旅の巻の完了です。

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