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今年最初の運動不足解消・肥満防止・気分転換・世間見聞他たくさんの効果が期待できる(?)トレッキングのオープン戦は那須高原茶臼岳に挑みました。
一般には那須岳と言われますが、地図には那須岳という山はなく、茶臼岳がいわゆる那須の火山帯の中心であり、そこに連なる朝日岳や三本槍岳などの峰々の総称であり、このような例は八甲田山(八甲田山という単独の山は無い)や蔵王連峰(蔵王山という山も無い)にも見られ、一般的な呼び名と個々の山の名前が一致しないのはよくあることなのでしょう。
今年は冬に雪が多かったせいもあり、東北の山はまだ雪に埋もれていたので、南下すれば雪も無いだろうということで、那須岳(茶臼岳)初挑戦となりました。
ロープウェイを使うとかなり山頂には近くなりますが、今回は一周コースを目指し峠の茶屋から上りはじめ、朝日岳登山の分かれ道にある避難小屋を経由して茶臼岳頂上、下りにロープウェイを利用し、駐車場から峠の茶屋に戻るルートでスタートしました。
雪が無いだろうとの想いと違い、峠の茶屋からは暫し雪中行軍、しかも半年振りのトレッキングで基礎体力も充分でなく、地図に書いてある標準歩行時間よりはるかに時間をかけて頂上までたどり着きました。
途中山頂が近くなると、今でも活動している火山らしく硫黄の臭いや、草木の生えない荒涼とした岩肌の風景が続きました。
特に初めて見る形状の石があり『石のことば』に載せようと思い写真 (ひび割れのある石)を撮りました。(このコラムはあくまで「石」が主役ですが、最近の傾向で半分旅行記か登山記になりかねないので)
これは石の表面に溜まった水が凍結してひび割れを起こし、それが何回も何年も何百年も繰り返されることによって、亀の甲羅の模様のような石が出来たんだと思います。
石質的にはおそらく玄武岩かと思われ、比較的硬い石質ではありますが、はく離や一方方向へのひび割れには弱いところもある石です。
とは言え、硬い石をここまで変化させる自然の力はやはりすごいものです。
そこから頂上はほんの先、写真 の誰かが磔のように手を広げているのが茶臼岳頂上です。
そして頂上には、白御影石産の那須岳神社のヤシロ(通常は氏神様用に使う石のヤシロ)と同じく御影石のお賽銭箱。
んーーむ、登頂記念にお賽銭は投げ入れたものの、この小銭はどうやって回収するのだろうなんて余計なことを考えながら、下りの道へと進路を移しました。
2月4日(土)5日(日)と松島かき祭りがありました。
今まで地元ではあってもなかなか混雑するかき祭りに行くことはなく(牡蠣が食べたい時にはいつでも食べられるせいもあり)毎回開催は知っていても内容や雰囲気はまったく知りませんでした。
今回は厳冬のせいで運動不足になり、若干体重も増え、アルコールの量も増加傾向の3悪の反省で、万歩計持参で歩きで参加してきました。
4日はあいにくの雪模様で、前日までの大雪と合わせ人も少なかったようですが、5日は歩きにも、イベントや試食の列にもちょうど良いお天気でそれなりの人出があったようです。(写真1)
無料の牡蠣鍋に並ぶ列、同じく殻焼きの無料試食の他に、有料のカキフライや牡蠣鍋、殻付牡蠣の販売、焼牡蠣の1,500円食べ放題コーナー等々なかなかの賑わいでした。
私はカキフライと牡蠣鍋、そして牡蠣ごはんをフーフー言いながら、雪をかぶった松の木の下で、立ったまま美味しくいただいてきました。
(せっかくの歩きもカロリー摂取の方がメインになってしまいましたが。)
ところで、このコラムは旅案内や食べ物案内ではないので(友人からは旅行記だと、からかわれていますが)本来の石の話をしたいと思います。
牡蠣は英語でオイスターですが、石にもオイスターパールというのがあります。
日本では比較的新しく流通されるようになった石で、原産地はインド東部のオリッサです。
ちょうど牡蠣殻状の大きさと色合いの模様を持つグレー系の御影石で最近流行の大型ビルの石工事に使われます。(写真2)
東京では港区のJT本社ビルや品川駅港南口のインターシティ、仙台では高層ビルとなった東北電力本社ビル(写真3)などが、オイスターパールの施工例です。
小さい見本石では派手な模様に感じますが、大きな面積に使うと、色合いも模様の主張もそこそこに建物に良くマッチし好い雰囲気の石です。
近くをお通りの際には是非見てください。
ところで、同じくオイスターパールという名称は、真珠作りにもこの言葉があるようです。
本来は阿古屋貝などを母体として綺麗な真珠が生まれるらしいですが、たまに天然の牡蠣からも真珠が出来ることがあり、その真珠をオイスターパールと称するそうです。
業界は違えど名称が同じで何か親近感を感じます。
宝石好きの女性なら真珠のオイスターパールの方が断然関心度と親近感は違うでしょうが。
つい最近ですが、大学以来の友人に誘われ、山歩き(流行語ではトレッキング、又は山ガール・山ボーイ?)を始めました。
今まで健康維持や脂肪燃焼のため、ウォーキングや散歩と称して、近所の公園とか遊歩道を歩く事はよく有りましたが、本格的(?)に大自然の中の山を歩くのはほんの1・2回の経験しかないなか、歩いた後の温泉とビールの美味さに魅了され、今年は既に数ヶ所の山に挑みました。
初めはもちろん初心者用に穏かな起伏で楽に歩けるコースを選択してもらい、ただ付いて歩くという気楽なものです。
八幡平山頂の周遊から始まり、次は裏磐梯五色沼の回遊、秋の紅葉シーズンには安達太良山頂に挑みました。それらは全て近辺に有名な温泉地があり、大抵はその後ゆっくりと温まり、足腰の疲れを癒してきました。
今シーズン最後のトレッキングは、宮城と山形にまたがる蔵王に行ってきました。
下から登ったのでは体力も時間も間に合わないので、まずはロープウエイ二つ乗り継ぎで蔵王山頂駅まで。
そこで蔵王地蔵尊に面会し、すぐ目の前の地蔵山山頂(1,736m)、有名なお釜を見ながら次は刈田岳山頂(1,758m)、そこから引き返し次は熊野岳山頂(1,841m)と3つの頂きを制覇(実はほとんど高低差無くそんなにきつくはない)しました。
そこからはひたすら下りでいろは沼、観松平(かんしょうだいら)を経過して樹氷高原駅に辿り着き、最後もロープウエイ一つを利用し、出発地に戻りました。
休憩時間も含め、約6時間、歩数は2万2千歩にもなりました。
この蔵王周辺では蔵王石と呼ばれる安山岩系の墓石・庭石用材が採れます。
随分下ってかなり疲れてきた又兵衛平(またべいだいら)で見つけたのが、斉藤茂吉の歌碑でしたが、これも蔵王石で出来ていました。さすがに郷土の人の歌碑には郷土の石だと、誰も気づかないだろう所に感心してきました。
ぐったり疲れたその後には、この日もやっぱり蔵王温泉の硫黄の匂いの乳白色の湯にゆっくり浸かり、今年のトレッキング最終を締めました。
当社山形県内ショールームの第1号店「まつしまメモリーランド山形店」をオープンしてから既に4年が経過しました。
その時の事は当コラム第24回と第26回に記載していますが、その後の4年間に山形県内第2号店「まつしまメモリーランド天童店」と生活石材ショールームの「ストーンライフ山形」を出店し、現在は山形県内3つの拠点で展開するようになりました。
これも山形エリアをはじめ各地の皆様からたくさんのご支援・ご支持があったからであり、改めてここに御礼を申し述べさせていただきます。
さて、その1号店の山形店の展示品も入替えの時期になり、また2号店の天童店と比べて敷地や建物が狭い事も有り、なかなか展示墓石が目立たないとの反省で、今回は外部展示の全面入替えと、内部展示は和型墓石を中心に室内スペースの半分の入替えをおこないました。
墓石に流行があるかと問われれば、それほど大きな変更は無いものの、石色の好みの変化や、デザインの変化、施工方法や耐震の技術向上などでやはり数年単位では変化しております。
また、家族構成や墓地の広さの変化など社会的な要因も、墓石デザインの変化につながってきます。
今回は特に、外部駐車場の場所を入替えて、外からよく見える道路側に、先端的な提案としてのニューデザイン墓石や伝統的な五輪塔墓石を配置し、通りすがりの人にも墓石デザインの傾向を見ていただけるようにしました。
また、外部の駐車場には街灯とは別に、創作灯篭や石灯りを設置し、夕方からは外部展示場を柔らかく包みます。
内部も大きく変えて、床は段差をなくして石のスロープに、また無機質だった正面裏の壁面を総鏡貼りにして展示品が全方向から見え、更には展示場の奥行きを広く見せる工夫をしました。
圧巻は横一列につなげた和型墓石の4セット連続展示です。
ここさえ見て頂ければ、和型墓石のほとんどのバリエーションを一見で理解していただける展示になっております。
一・二度いらしていただいたお客様も、是非また新しくリフォームした「まつしまメモリーランド山形店」にいらしてください。もちろんまだいらしていないお客様もお気軽にお出でください。
店長以下全員でお待ち申し上げております。
先月の台風15号の通過で、近畿東海では集中豪雨による被害が発生し、また都内では強風により街路樹が倒れたり、日本列島を縦断しながら各地に爪痕を残していきました。
9月21日、初めはしとしと振り出した雨でしたが、午後からは本格的に傘が必要になり、夕方には強い雨へとかわりました。
夜には台風が直撃する進路に当たるため、早めに業務を切り上げ帰宅しました。
夕方から本格的に降りだした強い雨はひと時も休むことなく大地に向かって降り注ぎました。
夜11時頃になり、会社周辺冠水の緊急連絡を受けましたが、駐車場に停めてある社用車移動と電気関係のシャットダウン等の処理の報告を受け、それ以上の被害は連想しませんでした。
ところが午前0時をまわった頃、再度緊急の連絡があり、会社周辺は腰の高さまで水が溜まり、会社に入れない状態との事。
差し当たりの追加処置だけ手配し後は朝を待つしか有りませんでした。
翌日明け方(22日)雨は何とか上がり、水も大分引いたので、会社に向かいました。
松島駅前の幹線道路が冠水で車は通れず、会社に入ったところ1階の食堂兼社員休憩室は浅いプール状態、同じく1階の物置・資材置き場も冠水痕がしっかり残り、資材は水浸しでした。
幸いにして、事務所機能やPCサーバーなど全て2階にあったため、業務上の被害はほとんど無かったものの、3・11では津波被害に会わなかったのに、25年前の8・5豪雨(1986年、昭和61年)と全く同じ被害を受けてしまいました。
その時も腰高までの冠水で梱包資材などと車1台を駄目にしましたが、今回も全く同じ被害状況です。
元々本社周辺は、川や水路より低い土地で、8・5豪雨後は、近くの排水設備を更新し、ここ25年は何事も無かったのですが、今回は上手く機能しなかったようです。
「災害は何度でも繰り返す」
やはり常に気を弛めてはいけないものですね。
当日(22日)は何としても東京に行く用事がありましたが、仙台までの在来線は全て運休、やむなく車で駅まで向かいました。
仙台駅は本来なら通勤客でごった返す朝の7時過ぎに、全く人が居ない事にびっくり。
それでも新幹線だけは何事も無かったように東京まで定刻で連れて行ってくれました。
新幹線に感謝です。
今回は特別天然記念物に指定されている北投石について書きたいと思います。
北投石と言うのは岩石の分類ではなく、鉱物の種類との事です。
???って感じでしょうか?
簡単に言うと、岩石(石)は通常たくさんの鉱物の集合であり、均一の物では有りません。墓石などに使う花崗岩(岩石)は石英(鉱物)・長石(鉱物)・黒雲母(鉱物)などの集合体であり、鉱物単体で出てくればダイヤモンドや水晶など高価な宝石として扱われることが多くなります。
北投石は見かけは玄武岩(岩石)や安山岩(岩石)のように見えますが、世界で二箇所しか取れない稀な鉱物との事です。
産出されるもう一箇所は名前の由来となった台湾の北投地区だそうで、発見したのは当時台湾総督府があったことから日本人博士のようです。
この石(?)、否、この鉱物の珍しいのはそれだけでなく、放射性のラジウムを強烈に含んでいる事です。
原発問題では放射性セシウムや放射性ヨウ素が大問題になっていますが、ここのラジウムは微量・定量であり、同じ地下から湧き出る日本一の強酸性温泉(PH1.2でピリピリします)と合わせ、低放射線ホルミシス治療により病気が治る温泉として人気を博す事になりました。
秋田県仙北市の田沢湖に近い所にある玉川温泉がその場所です。
湯畑のある玉川温泉を源流に向かい5分ほど登った所には、雨でも岩盤浴が出来るテント風温浴所が3つ有り、そこは既に人でいっぱい、その先の露天岩盤にも茣蓙を持参した人たちの岩盤浴が所狭しと広がり、一汗かいた後は源泉100%の強酸湯に体を浸し、湯治宿で長く滞在する方も多いようです。
私も源泉100%と50%の強酸湯、さらには弱酸性の湯、ぬる湯、蒸気浴など堪能し、体のサビ落しをしてきました。
恐山で有名なのが「イタコの口寄せ」といわれる、霊媒師の語りです。
この日は、イタコの小屋が2つ境内に設置されており、それぞれに20人位づつ列を作って希望者が待っている状況でした。
イタコの口寄せは本質的にはお寺とは関連が無く、又宗教とも一線を画すものですが、民間習俗或いは心の安定の為の仕組みの一つとして、根強く一般に受け入れられている風習です。
風や直射日光、雨や寒さを防ぐために、掘っ立て小屋のような簡易建物の奥に齢七十歳を超すだろうと思われるおばあさんが、地元の下北弁で故人の霊のかわりに生者に語りかける。そこには誰にも共通する話題もあるだろうし、故人と家族しか知らない話題もあるでしょうが、占いや予言と同じくそれについては信じる人、信じない人が居るのは確かです。
ここでは、その件は深く触れないでおきますが、その風習は仏教や各宗教が入ってくる遥か以前の縄文時代や弥生時代の日本人から、連綿として引き継がれたもののような気がしました。
それを行ってきたのはシャーマンとか祈祷師とか云われる人たちですが、少なくとも邪馬台国の女王卑弥呼の時代には現実に日本に存在していました。
物の本によれば、卑弥呼というと勝手に妙齢の女性を想像しますが、実際にはかなり高齢だったとの見方も有り、ちょうどイタコのおばあさん達のようなものだったのでしょうか? 卑弥呼=イタコのイメージは意外と真実味があるかもしれませんね。
また、石の地蔵(?)に服を着せたり、よだれかけを掛けたり、頭巾を被せたりするのも、厳密には仏教以前の民間習俗から来ているものなのでしょう。
信仰と信心、宗教と習俗などあらためてその違いを漠然と考える事ができました。
イタコの口寄せは、代金(心付け)は一霊に付き3千円から5千円だとのことでした。
私も15年前に父が向こうに逝ってますので、口寄せで父の言葉を聞いて見たいと思いましたが、さすがに長い列に並んで待つ時間が無く、今回は実現しませんでした。
青森県の下北半島には25,6年前にむつ市まで行った記憶はありますが、その先の恐山までは行った事がなく、有名な霊場はテレビや写真で見るだけの場所でした。
今回は25年前と違い、八戸からの太平洋側ルートを通り、原発で有名な六ヶ所村、東通村を経由してむつ市に入りました。
途中の六ヶ所村や東通村は、本来なら本州最北の人口の少ないエリアで、道路や施設も期待出来ない場所のはずですが、原発の恩恵で道路はくまなく整備され、中学校や村庁舎も近代的な建物で、原発と地元の融合が見て取れました。
しかしながら、今回の福島原発事故による影響でこれからは、この六ヶ所村・東通村にもいろんな意見と反響が押し寄せ、今後が大変だろうと思いながら通り過ぎてきました。
目指すむつ市に入ると、先に見えてくる大きな山は釜臥山ですが、これは恐山山地を形作っている八つの山の一つであり最大の山です。
釜臥山を目指そうと思ったら、恐山への道案内は釜臥山のずっと右側(北方面)を指しており、一瞬迷ったかと思いましたが、途中からは石の一里塚や道端の地蔵様が迎えてくれ、一本道を登り下りして辿り着いた場所が霊場恐山でした。
釜臥山をはじめ地蔵山、鶏頭山など八峰に囲まれた中にカルデラ湖の宇曽利湖があり、その湖の綺麗な色と穏やかな景色がまるで極楽浄土のように、そしてその周辺の荒涼とした火山ガスの噴出する岩肌の一帯が地獄のように思われるところから、霊場として参拝されるようになったものです。
写真1は中央の地蔵殿の後ろから、正面の参道とその先に宇曽利湖、すぐ右手が岩肌のエリアです。(湖の奥、山頂が尖って電波塔のようなものが建っているのが釜臥山です。)
写真2は極楽のような宇曽利湖湖畔に供養のため供えられた風車の一部と白い砂浜。
写真3は地獄谷と名付けられた火山岩エリアです。
地獄谷の石は孔の多い、軽石の類がほとんどで、いわゆる溶岩や火砕流が固まった岩石の種類です。硫黄など火山ガスが噴出している事もあり、この軽石のある所ではほとんど植物も生えません。それが荒涼とした風景につながります。
ところが宇曽利湖の湖畔も実はこの軽石が粉砕された砂質で、こちらは逆に水の碧色を引き立たせて、とても美しく感じられます。
同じ火山岩・軽石の影響が、好い事に見えたり、逆だったりと、まるで今回の原発問題に何か通じるようで複雑な思いを抱きました。
有名なイタコの話は次回とします。
甲州紀の続きは ワインのお話しにします。
山梨県と言って思い付く事の中に、やはり甲州葡萄と勝沼ワインがあるかと想います。
なかなかフランスやイタリアのワイナリーに行けない身にとっては、国内でのワイナリー訪問はとても身近で体験可能な楽しみの一つです。
今回は勝沼ぶどうの丘の地下貯蔵庫でワインの試飲が出来るのが、最大の楽しみでした。
見渡す限りの斜面の遥か先まで葡萄の棚が並んでおり、まさに日本最大の葡萄産地でした。
その一角に公営の施設「勝沼ぶどうの丘」があり、レストランや資料館、お土産売り場などの施設の他に、地下に目指す貯蔵庫があります。
ここでは近隣のあらゆるワイナリーから持ち寄った、ほとんどの銘柄のワインを試飲できます。
試飲方法ですが、まずは1,100円で「タートヴァン」という金属製の試飲用カップを購入します。
あとは白ワインコーナー約100本、赤ワインコーナー同じく約100本、そしてロゼワインコーナー約30本ほどが樽の上で開栓させており、自由に注いで味を見るのですが、何本も飲まないうちに、前の味を忘れてしまい、比べられなくなります。
何回でも何時間でも飲み続けて良いですよ、と店の方に言われたものの、あっちいったりこっちいったりしているうちに適当に酔ってしまい、好みのワインを探すのが難しかったです。
一応、私のお気に入りは、メルロー100%で樽貯蔵の2008年ビンテージ、同じく勝沼産の甲斐ノワール100%2008年です。(でも200本以上の中でおそらく30種も試飲出来なかったのと、最後は舌も酔ってきたのでいいかげんかもしれません)
ワイン試飲貯蔵庫の傍らには、勝沼ワインの歴史が紹介させていましたが、明治初年、高野何某(なにがし)と土屋何某(なにがし)という二人の若者がフランスに言葉も分らず留学し経験してきた事を、当時の勝沼の人々が受け継ぎ100年以上の時間とともに、日本のワインをリードしてきた事は、何事も創業期の人々の熱さをおいては語れない情感やその風景までもが感じ取られ、つまみを持ち込めないワインの心のつまみとして、更に試飲が進んだ体験でした。
またまた、紀行文になってしまい数少ない読者の一部から、あたたかい批判を浴びるかもしれませんが、武田信玄で有名な山梨県に湯治を兼ねて行って来ました。
初めに訪れたのは、身延山久遠寺です。
ここは日蓮が晩年を過ごした為、日蓮宗の総本山となり今も同宗の信者が絶え間無く参詣に来ている場所です。
今まで宗派の本山としては、比叡山延暦寺、越前永平寺、京都の東西本願寺など観光として参拝させてもらいましたが、身延山はいささか今までの各寺院とは違うような感じを受けました。
あれだけ有名なので観光客がかなり多いだろうと思っていましたが、奥深い場所のせいか、或いは日蓮宗の教義によるものか、観光客よりも白装束の信者のお参りが多く目に付き、観光寺と言うよりは本山の役割りのほうが多い場所だと感心しました。
日蓮が故郷千葉県を想い何度も登った奥の院は歩けば2時間半、ロープウエイならたったの7分で、当然楽なほうで登り(乗り)ましたが、その上の眺望はまさに最高でした。
残念ながら富士山は半分雲に覆われ、その全貌は現しませんでしたが、素晴らしい景色に心洗われる思いでした。
いつもの事ですが、重い石を頂上付近まで運び、奉納する作業は、昔も今も本当に大変な仕事です。歴代の石工たちの作業や奉仕ぶりがこの奉納石に残されています。
奥の院の一番高いところに、日蓮の言葉として親を想う石碑がありました。
この石は関東では神奈川の小松石と並ぶ銘石、山梨県で採れる山崎石で造られていました。甲州小松とも言われグレー系の安山岩でその品の好い石質に刻まれた文字も大変気に入り思わず写してきました。ここにその文章を紹介しておきます。
孝と申すは高なり
山高けれども
孝よりは高からず
又孝とは厚なり
地厚けれども
孝よりは厚からず
心に残る名文でした。
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