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第1回のCAD立体図をご提案したところ、お母様からは
「まわりはシンプルに」「お掃除がしやすいように」
「屋根はもう少し厚く」「なだらかな曲線で」
「本体は少し明るく」「もうちょっと豪華に」・・・
と何回かのお打ち合わせでご本人のイメージもだんだんはっきりとしてきて、かなり具体的な図面を作ることができました。
しかしながら、その図面を見てまず驚いたのが屋根石の大きさです。
約2.5メートル×2.5メートル、厚みは40センチメートル。このままだと7トンもの重さです。
もちろん四角の石から上の分を削ったり、六角形に切ったりするので半分以下にはなるものの、それでも3 4トンの石が空中に浮く格好になります。
当社の墓石は、耐震工法で地震が来ても安心な施工を行っていますが、さすがに空中にそれだけのものを、そして安心して御参りできるようにするには、単純な工法ではだめだと改めてご依頼の難しさに頭を抱えてしまいました。
さらには、原石の採掘場でも(丁場と言います)、そんな巨大な石はほとんど出てこないし、また仮に採れたとしても、丁場から工場へ運べない、加工できない、コンテナに載せられない、無理にやっても費用が膨大になる・・・等々各担当者からダメだしをもらってしまいました。
「無理だよ」と親友を通じてお母さんに言ってしまおうかと何度も思いましたが、亡くなったお父さんの姿が目に浮かび、やれるところまで、可能な形でご提案しなおそうと各部門の調整をかけました。
幸い当社には、建築工事部があり、工事部の本部長も巻き込んで、重量物を支える強度計算、基礎・地中梁の構造計算、石と金属のダブル構造の柱・・・結局、耐震施工は全面的にビル建築の手法で可能である事を見出しました。
また、丁場は当社のアモイ事務所から、丁場オーナーに特別大きな原石を譲ってもらう約束をし、また中国の工場の社長には特殊な加工機と、それ以外は手加工でやってもらう話を取り付けました。
最後は海上を運ぶコンテナの大きさです。これはどうしても箱の大きさが決まっていて、また梱包して取り出す関係で船会社にも確認し、この条件下で積める最大の大きさ
「2,350×2,150×400、重量約2.8トン」
これならやれると言う確信を持って、再度設計し、ご提案という形になりました。
それでも念のため先に親友に来てもらい、本当に屋根付きで考えているか、お母さんには普通のお墓に戻してもらうよう説得しようか、と事前に相談し合ったものの、やはりお母様はお父さんと二人で話した思いが強く、親友も「母の思うように作ってやってくれ」との結論で、ご提案の通りで決定しました。
早速、当社工事部も含めた特別プロジェクトを開始し、また私も中国の工場に出向き始めて見る大きな原石を確認(写真1)、当社の総力を挙げた施工を完了し、お引渡しでお母様に満足いただいた当社自慢の屋根付きお墓が(写真2)です。
担当した社員、そして今回のプロジェクトに参加した全ての関係者が、お母様の想いを実現するお手伝いが出来たことに、心より感謝しています。
そしてその想いがまっすぐでとても強い事に、心が洗われるような清々しさを感じるのは、親友のご両親だからというだけでは無いと思います。
雨のあたらない屋根の下で永遠の眠りにつくお父様のご冥福をお祈りいたします。
今回はお墓の依頼とその想いについて述べたいと思います。
実は先日、高校時代からの親友のお父さんが亡くなりました。
高校時代はその彼の家に遊びに行ったりしていたので、お父さんにもお母さんにも大変お世話になりました。
また、ずっと後になって、まつしまメモリーランドの1号店を立ち上げたときに、店舗がご両親の家の近所ということもあって、そのお父様とお母様がオープンのお祝いに駆けつけてくれたこともありました。
その後もたまに店の方に遊びにいらして、「いづれ俺のお墓を頼むから・・・」と半分冗談でお話しされていました。
2月のある日、その親友から突然の電話でお父さんの亡くなったことを聞いて、弔問に駆けつけました。
ご葬儀は生前のご交流が広かった為、盛大でもあり又厳かな雰囲気のなか、心に残る式典でした。
それからしばらくしてお母さんが落ち着いたからと、墓石の話になりました。
実はお父さんが生前に、お母さんとこんなお墓がいいなと相談していたというのです。
お母さんからその要望を聞いて、今までに無い依頼だったので、これはちょっと大変かなと少し不安がよぎりました。
それはお墓に屋根をつけて、雨や雪で墓石が濡れない様にしたいとの事。
お二人が元気だった時に、中国に旅行して現地のお墓を見たら屋根がかかっていて、あんなのがいいなと話し合ったらしいのです。
また、お父さんはその後、お一人で図書館に行って、屋根付き墓石の資料や写真などを調べられたとの事でした。
日本にも沖縄タイプの家型墓石があるので、最初はそんな感じのお墓かなと資料をお母さんにお見せしたところ、そうじゃなくて中国で見たタイプで・・・とのご依頼でした。
中国には私も何度も訪問していますし、また当社のアモイ事務所に確認すれば、だいたいの事はわかるだろうと、簡単に次回訪問時CADの立体図面で提案することを約束しました。
写真(CAD立体図)はその時の第1回目のご提案図と当社の中国事務所で調べた中国の屋根付きお墓です。
しかしながら、その意に反して簡単に考えてお引き受けしたこのご提案が、当社の建築事業部や工事事業部、基礎外注工事業者、中国の提携工場まで巻き込んでの一大プロジェクトになる詳細は、このまま次回に続けさせて頂く事にします。
今回は我々が加入(参加)している石材業の組合について書きたいと思います。
現在、石材業者が全国組織として対等に集まっている大きな組合は二つあります。
(それ以外に石の卸業者がスポンサーになってる○○会や○○石、○○協力会等もありますが、それらは特定の企業を中心とした利害関係の強い特殊な組織と言えます。)
その全国組織の二つとは、一つは墓石業者約1,000社が加入している「日本石材産業協会」という団体です。
こちらは、2001前に日本全国の各種石材協会(10団体程)が大同団結して立ち上がった日本最大の石材組合です。
この組合で推進しているのが「お墓ディレクター制度」です。
この制度導入と同時に当社も関係者に受験してもらい、墓石に携わる社員全員が2級取得、その中から超難関の1級は9名も合格しています。
(2007年4月時点で、1級取得者は宮城県全体で11名しか居ません)
また、この組合の地震研究部会には当社の店長が地震研究委員として参加し、地震県宮城の貴重なデータを提供し実験にも参加しました。
当然ながら当社は「日本石材産業協会」の会員になっています。
もう一つの全国組織は「全国建築石材工業会」という、大理石など建築石材を取り扱う業者の組合です。
こちらは結成から55年間の歴史ある組織ですが、各社の営業範囲が広いせいか、1社が各県にわたって支店を展開してるせいか、加入企業数はは全国で100社ほどです。
(当社も本社と仙台支店、東京支店、アモイ事務所で登録しています。)
こちらで昨年から始めたのが、「建築石材アドバイザー」認証資格です。
これは多方面に亘る建築石材の真のプロフェッショナルを工業会として認証し、制度として位置づけたものです。
当社ではまずさしあたり、本社販売から2名、工事部仙台支店から2名の4名が受験し見事合格しました。
今後こちらの資格取得も建築関係の社員全員に展開していくつもりです。
私事ですが、この「全国建築石材工業会」では、数年前から常任理事を任され、毎月東京に出張し、本部にて常任理事会に参加しています。
自社の事だけでも体が回らないなか、組合の役員をやるのはやはり大変です。
各社の方針の違いや、利害関係などの違いで、協会をまとめるのは大変な仕事です。
任されているから云うわけではありませんが、このような協会の役員はほとんどボランティアです。
会社が生業としている業会のために、との思いが無いとなかなか勤まらない仕事だと思いますが、良かれと思うことも旧態依然の守旧的な考えが幅を利かせたり、反抗勢力があったりと役員間の舵取りに疲れることもあります。
当社は事業として「墓石」もあれば、「建築石材」もある関係で、この二つの組合に加入しているのですが、本当ならば「墓石」も「建築石材」も合わせて一つの大きな組合があれば、簡単なのにと思います。
おそらく一般の方々も、「石」の業会に「墓石」と「建築石材」の二派がある事には意外さを感じるでしょうが、実際にその両方に参加しているのは、当社を含めわずかに三、四社しかない状況では、当分はこの両方の組合に加入していないとならないのだろうと思います。
前回の話しの続きになります。
既述したように当社には事業部が複数あって、墓石部門(まつしまメモリーランド)や建築石工事部門(仙台支店、東京支店)それから建材商社の販売部門(本社)と製造部門(工場)或いは中国部門(アモイ事務所)などに分かれていて、お客様も違い取り扱い品も違い、それぞれがまるで別々な小(しょう)会社のような組織になっています。
各事業部は始業時間も違えば、休日や勤務の日もみんなバラバラで、同じ社内でも1年に1,2度しか会わない社員同志もいます。
人はそれぞれ考え方も違えば、趣味趣向も人生観もみんな違います。
それはもちろん当然のことですが、やはり同じ会社に集ったからには、少なくても大きな意味での方向性(ベクトル)くらいは合わないと、会社としての態をなさないと思います。
当社も事業単位(部門や店舗等)が12部所に分かれ、社員が75名になり、年齢層や国籍やもちろん性別も違えば、そのベクトルを合わせる事が非常に難しくなってきていました。
実はそんな悩みをしばらくの間持ち続けていて、何か方法がないか探していました。
そんな中、あるきっかけから、リッツカールトンホテルの経営理念「クレド」の事を知り、いろいろ調べているうちに実際に見てみたくなって、大阪梅田のリッツカートンに電話し、宿泊予約と同時に「クレド」を1部頂けるように交渉して泊まらせてもらいました。
余談となりますが、顧客満足度NO・1のホテルだけあって、その接客の良さは抜群で、その後3度も足を運ぶことになりました。もちろん1回目の時に約束どおり「クレド」の現物を頂きました。
その「クレド」リッツカートンベーシックを参考に、構想から約1年かけて製作したのが、松島産業経営理念「クレド(Credo)」です。
これを各会議や朝礼の時にそれぞれの部門で活用することによって、全く同じ或いはとても近いベクトルを共有できればと思い、昨年1月から使用を始めました。
現在ほぼ一廻りが終わりそうですが、理想の形になるのはこれからだと思っています。
新年度からは二廻り目を続けていこうと思っています。
なお、その他に「(感謝をこめて)ありがとうカード」と言うものも活用していますが、その話しはまたの機会に譲りましょう。
今回は少し違った方面から話をしてみたいと思います。
当社では現在、事業を行っている拠点が12ヶ所あります。
松島町……本社事務所、工場、北松島店、施工課事務所兼墓石工場 4ヶ所
仙台市……泉店、中山店、実沢店、長町南店、工事部仙台支店 5ヶ所
多賀城市…多賀城店 1ヶ所
東京都中央区…東京支店、(人形町寮) 1ヶ所
中国福建省・・…アモイ事務所 1ヶ所
現在上記の拠点で仕事に携わっている社員は全部で75名です。
また、社員の住んでいる現住所を市町村別で見ると
仙台市・・・・・・17名
松島町・・・・・・12名
東松島市・・・・12名
中国アモイ市・・・・6名
その他、東京都、多賀城市、大郷町、美里町、石巻市、塩釜市、大崎市、富谷町、
利府町、七ヶ浜町、大和町、涌谷町、岩沼市など広いエリアに亘っています。
以前、当社は松島町にしか拠点がなく、全社会議といえば当然ながら松島の本社で行っておりました。
仙台市に一,二店舗開設した時も、しばらくは各拠点から本社に集まってもらっていた時期もありました。
途中で効率の悪い事に気づき、全社会議以外の月1回の社長朝礼などは、私の方で各拠点を回ったりした期間もありましたが、朝8時に本社にて朝礼をしてすぐに移動を開始しても、各店(東京支店とアモイ事務所を除く宮城県内の各拠点)を回り終わる頃には午後になってしまい、朝礼が昼礼や夕礼になり一日がかりになってしまった事で、現在はそれも改めています。
特に問題なのは年末や期末に全社員が集まり、経営的に重要な全社会議をどうするかでした。
年末などは会議の後に、親睦会主催で忘年会などアルコールが出される会合を計画すると、必ず宿泊の手配もしなければなりませんでした。
5年程前から全社会議は仙台駅の近くに会場を借りて行い、その後の忘年会にも対応できるよう、全員がバスや電車、地下鉄などの公共交通機関を利用して集まるようにしました。新幹線を利用して東京支店からも駆けつけてもらいます。
これで日本の全社員69名が一同に会せます。(写真 、昨年12月22日ホテルモントレー仙台にて)
同じ会社の中でいろんな部署いろんな仕事に就いているからこそ、同じ空気の中で同じ時を共有する必要があると思います。
堅苦しい会議の後には、場所を替えて、事業部や拠点をばらして円卓を組み、日頃の『石』の話とはまた別な話題で盛り上がったりもします。(写真 、同12月22日、親睦会忘年会)
中国の社員だけはそう簡単に集まることが出来ないので、それはまた向こうに行った時に、時期を見て同じようにアモイ事務所会議と食事会を行います。(写真 、昨年12月25日)
なかなか普段は全社員と密に仕事で触れ合うことが無いので、全社会議で会って話し、そして食事会等で皆の笑顔に会える事は私にとって何よりの楽しみです。
多賀城店のオープンストーリーの続きを述べたいと思います。
10月16日(月)正式にトヨタ側から多賀城店の引渡しを受けました。
しばらく前から、オープンは11月11日(土)と決めていましたので、準備期間は正味26日しか有りません。
後でいろんな部署から、オープンまでの時間が無さ過ぎる、なぜその日なのかと悲鳴に似たクレームがありましたが、土曜日である事・大安である事・1が4つ並ぶ事(余談ですが中国ではこの日は独身の日だそうです)・そして何より本格的な冬が来る前に少しでも早く開店したかったので、過去の経験上でギリギリ限界の日程を組みました。(自分でも一時、限界点以上だったかなと思ったこともありましたが…)
その26日間の中で、建物の外装(看板や外壁塗装)、内装(サッシや天井や壁)、外構(展示ステージ、駐車場、エアーゲート)等のいわゆるリフォーム改修工事の期間。
それから机や電話やコピー機やパソコンなどの備品の工事期間。
当然ショールームなので30セット以上の墓石の展示品の設置工事期間。
さらにはその展示品に単価を表示したり、POPの貼り付けを行う準備期間と大きく4つの作業がありましたが、とにかく全部で26日後にはオープンですから、嵐のような日々でした。
まずは、最も時間のかかるリフォーム改装工事ですが、以前からお願いしている慣れた業者さんに頼み、阿吽の呼吸で工事を進めてもらいました。16日間で、看板も床も壁も天井も電気も…全ての工事を完了、11月2日に当社に引渡しして頂きました。
そこからの9日間は手分けして30セット以上の墓石の設置、備品の準備、同時に店舗環境の準備等々、これで何とか行けるかなと思ったのは、オープン前日の10日夜10時過ぎでした。
この間、やはり色んな方にお世話になりました。
まずはトヨタの方々に先行して寸法を測らせて頂いたり、工事業者の方に着工前にイメージ図で打ち合わせしたりと準備期間を有効に活用させてもらいました。
また特記しなくてならないのは、初めての外部展示で迷っていた時に、先行する青森の石材店さんの外展示を見せていただき、外に展示する決断とヒントを得る事が出来ました。
更には短期間でこれだけの展示品の製作を手がけた工場の協力や設置を担当した施工課
の苦労、設計メンバーやアモイ事務所スタッフ、当然ながら多賀城店オープニングメンバーとその協力スタッフの努力、影で支えた家族や関係者全員のお陰です。
ありがとうございます。
そして迎えたオープンの11月11日(土曜日、大安、1並びの日)は見事に!!!
『小雨のち大雨』
の天気でしたが、朝から多くのお客様や、ラジオカーの生中継などがありご成約で賑わいました。翌12日(日)は晴天で更に来店が増え満足の二日間を締めくくる事が出来ました。
前回に引き続いてオープンまでのいきさつを述べたいと思います。
実は「多賀城店」の構想はエリアこそ若干違ったものの、数年前からの検討事項でした。
2000年に泉店をオープンした後の2号店検討の時に、現在の「長町南店」エリアと比較検討したのが仙台東部地区でした。
その時は泉店の北部に対して南部出店の意識が強く、結局は2002年 先に「長町南店」を開設いたしました。
その後2004年に西地区及び北西地区の北環状道路沿いと,やはり東部道路沿いのエリアの検討時期がありました。
この時は出店土地の問題で、もう少しで今の場所と違った東エリアに、ひょっとして「仙台東店」の開店の可能性もあったのですが、その時動いてくれた仲介不動産関係の業者さんや土地オーナーさん、借主の店主さんとその奥さんなどのご協力があり、その時もやはり先に「中山店」の方が決まり、東地区は見合わせることになりました。
(但し本社より更に北東の第2工場敷地を利用した「北松島店」は既に前年オープンしていましたが。)
その後は前号で述べた「いずみガーデンメモリアル妙法寺墓苑」の取り扱い準備や、「実沢店」構想などで一時東地区の検討を中止していました。
そんな中「多賀城店」を本格的に再考したのは、「実沢店」の場所を選定する為、昔の仲介不動産業者さんと連絡を取ったのがきっかけです。
その方は前の不動産会社を辞め別なところに居たのですが、私が出した「実沢店」に合う条件の場所を熱心に探してくださいました。
残念ながらそのルートでは見つからず、結局今の「実沢店」は別な所の仲介になりましたが、その折に『まだ市場に出て無いこんな物件もあるんですが・・・』と見せてもらったのが今の「多賀城店」です。
聞けば有名な会社の移転に伴う物件で、相手側も変な所には売らないので、相手側と交渉及び確認が必要との事。
あの時 実は「実沢店」の契約と同時に、もう一方で「多賀城店」の契約も着々と進んでいました。
ただ、多賀城側は現状使用しているところでしたし、新築の別な場所への移転等の関係もあり、内々でお話しを進め、8月25日仮契約(この時は未だ8月5日の「実沢店」オープン「いずみガーデンメモリアル妙法寺墓苑」開苑期間の真っ最中)そして10月15日本契約引渡しのスケジュールで進みました。
多賀城店オープン11月11日までの、その後の異常なスピードのオープンストーリーがまだまだあるので、続きは次に持ち越しましょう。
しばらくぶりの社長コラム執筆です。
言い訳ではないんですが、実はこの休んでる間にメモリーランド二店舗のオープンがありました。
続けて2ヶ所のオープンは今回初めてだったせいもあり、なかなか落ち着いて時間が取れなく、じっくり考えたり、本を読んだり、このような記事の執筆にも気が向きませんでした。
ようやく二店舗目の開店も落ち着き、振り返るつもりで、二店舗オープンのいきさつを述べていこうと思います。
いつも思うのですが、事業には目に見えない『縁』や『運』が重要であると思います。
それは今回の一店舗目『まつしまメモリーランド実沢店(さねざわてん)』のオープンにもあてはまります。
実沢店は今までの当社の店舗スタイルとは違い、コンビニスタイルとなっています。
ここは主に「いずみガーデンメモリアル妙法寺墓苑」や「仙台市いずみ墓園」等の墓地を紹介したり、またお墓参りのお手伝いができるように「花の駅」を併設したりと、既存店にはない取組みをしました。
まずは「いずみガーデンメモリアル妙法寺墓苑」の霊苑関係者の方々との出会いの縁は、既に3年ほど前に遡りますが、この時この流れで多くの方々との出会いを持つことがあったおかげで今回の参加もありました。
また当霊苑の指定石材店として、関東から複数の石材店さんが仙台にやって来ましたが、それらの石材店さんのビジネススタイルも改めて間近に見る機会を得ました。
社員やアルバイトの方々との出会いも縁であり運だと思います。
オープン当初は特に忙しく、正規の社員だけでなく、他店舗からの応援や、アルバイトや人材派遣の方々にたくさんの協力を頂きました。
特に始めは水やりもわからず、枯らしてしまった生花の管理は経験者にお願いして何とか乗り切りました。
「いずみガーデンメモリアル妙法寺墓苑」の案内や説明も慣れない人たちが一生懸命に取組み、おかげさまでたくさんの予約を頂き墓石建立につなげて頂きました。
又この店舗との出会いも縁であり運だと思います。
いい場所でいい時にご紹介を頂き、内装業者さんに無理を承知で、妙法寺墓苑開苑と同じ日 8月5日のオープンに間に合わせてもらいました。
こうしてみると実沢店開店には実に多くの方々との出会い(これが縁であり運だと思います)があって、始めて出来た事を改めて感じます。
多くの方々に感謝です。
霊苑の関係者の方々、ご来店いただいたお客様、店舗の関係者、地域の方々、社員やその家族、そしてライバル会社の石材店の方々も含め、皆様のおかげです。
有り難うございます。
二店舗目の多賀城店(11月11日オープン)のいきさつは次号でお知らせします。
先日、NPO法人宮城福祉オンブズネット「エール」が主催する宮城ろうすくーるの特別講師を務めてきました。
30代40代から60,70,中には80代と見受けられる勉強熱心なシニア(主に)の方々約50名の前で、1時間程の内容でした。
中味は当然ながら石の話、でも少しはまじめな「お墓についてまじめに考える=(自分の人生観を問う)」というものです。
墓地の話やお墓の形、色など流行について、また建築学的な墓石の耐震・免震工法の話、地質学的な安山岩や花崗岩など強度や組成の話等など、一昔前なら「縁起でもない、年寄りだと思って早くお墓を作れって話か?」と怒られそうですが、半分以上はお墓の事でした。
ただその副題にもあるようにお墓を考えていくと、自分の死についても考えざるを得ず、その事がそのままその後の残りの人生をどのように生きるか(=人生観、死生観)につながり、さらには自分の死後の事まで(遺された家族や子や孫の心配)も思い描いたらしく、その後の質問コーナーでは「実家の甥には任せたくないので三男の自分が先祖ごとお墓を持って来れるの?」とか「イエの墓に入らないようにするには」や「お参りに来てくれるのは何回忌くらいまで?」といったお話も出て来ました。
当然ながら、参加された皆さんが何かしら悩みを抱えている事とは思いますが、その時間の間は、けっして暗い話としてで無くどなたも明るく真剣に授業に参加されていたのには本当に驚きました。
いろいろなお話をお聞きし、またお話をさせて頂き、逆にこちらが大変に勉強になりました。
特に参加された皆さんは、私の授業の前が「遺言書の正しい書き方=実際に自分の遺言書を書く」だったので、真剣に自分を振り返り冷静に見つめなおす事が出来たのでしょう。
私なりに最後に締めさせて頂いた言葉は「お墓は亡くなった人の為だけではありません。遺されて生きている人の為でもあります。自分の骨だからその辺に捨ててくれ、思い出も全て忘れてくれでは、遺された家族の心が癒されません。生きている時と同じように報告や相談に行く場所がお墓だと思います。」
『石は想いを伝えます』
私たちがそんな仕事をさせて頂いている事に改めて感謝した一日でした。
世の韓流ブームは一息ついたようですが、今回は韓国の墓石事情を取り上げたいと思います。
実は今から15年程前までは韓国は日本の御影石の輸入先 NO・1 の国でした。
もともと韓国の大地からは白系、ピンク系の大きな原石が採れる事にあわせて、石の加工の技術も高く、石造りの建造物も多い国でした。
奈良時代やその前の飛鳥時代などの石工は、ほとんどが百済からの渡来人であったり、その子孫であったようです。
言ってみれば、別々の発展を遂げたとは言え、日本の石技術の本家が韓国の石屋ということです。
今から三十数年前の国際化の中で、日本の石材店は難しい石灯篭の加工などを韓国に依頼し始め、当時の人件費の差が更にそれに拍車をかけ、どんどん韓国で日本の墓石を作るようになりました。
その後、安価で大きな石が採れる韓国の白御影石を使って、日本の建築バブル時期に大型の石工事も韓国で作るようになりました。
当社でも20年程前韓国の工場に3ヶ月間ほど社員を駐在させ、横浜のインターコンチネンタルホテル会議場前の駐車場広場石工事は、全て韓国で製作いたしました。
韓国材を大量に使った石工事では、宮崎のフェニックスリゾート ホテルシーガイアがあり、その膨大な量の外壁の多くが韓国産の御影石であったため、韓国中の石屋が大騒ぎした現場でもありました。
そんな状況下、韓国の石屋の半分程は何らかの形で日本の仕事で潤っていたのが、今から15年程前からその地位を中国に奪われ始め、10年位前には日本からの注文が全く無くなり、あわせて韓国国内の仕事さえ中国で作るようになり韓国の石材業は惨憺たる状況となりました。
ところが、世の中はうまくしたものと言うか、「捨てる神有れば・・・」の例えどおり韓国に御影石の一大需要が生まれて、それは現在も拡大中です。
実はその石屋を救ったのが韓国のお墓事情です。
韓国はもともと民間の風俗のせいか、クリスチャンが多いせいか(キリスト教は復活思想の為)土葬が多く以前は7割を占めていたようですが、土葬の為には多くの土地も必要で、先祖から子孫代々と埋葬する為には、山一つを購入しないと足りません。実際に韓国の高速道路を走っていると、右に左に緑に覆われた土饅頭が現れてきます。
政府も問題視し始め、日本の墓地や火葬納骨方式を多いに推奨し日本式への移行を促しているようです。
その効果もあってか最近は火葬が50%を占め、さらには古い墓地を整理し、一族のお墓を作り直す動きも盛んになり、墓石の需要が急激に伸びています。
先日ソウル市内の墓石展示場を見学してきましたが、日本の「家の墓」以上の、「一族の墓」のため非常に大きく使用する石の量も多く、価格も日本より数倍高くなっていました。
そういった変化がちょうどここ10年間の事のようで、日本輸出が無くなったマイナスを上手くこちらに乗り換えたところが、現在の韓国の石屋が生き残っている大きな理由と思われます。
昔付き合いのあった韓国の石屋さんも、今はほんの数人になってしまいましたが、それでも未だ良い関係で続いているところもあり、この波を生かして頑張って欲しいと願っています。
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