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日本人は何かと名所や名物など3つ揃えて三大○○と称し寄せ集めるのが好きですが、日本三大名瀑というのもあるようです。
有名な滝としてふっと思いつくのが「華厳の滝」「那智の滝」えーと、あとは何かと思うところですが、意外や意外、もう一つは茨城県と福島県の県境近くにある「袋田の滝」とのことで(中には袋田の滝に異論があり別なのが数えられたりしていますが)比較的行くのに時間がかからないので、ちょっと足を延ばして行ってきました。
ここは茨城県福島県の連続した花崗岩地質によるせいか、岩肌が純粋な花崗岩部分と、まるで筑波山近辺にあった小さな岩石が固まって一つの岩のように見える「さざれ石」部分があり、そのさざれ石質の岩肌を流れ落ちる水が、細かな空気の層を含み、白く絹糸のように流れる、確かに他の名瀑といわれる滝とありようとは違う、何か高貴な感じのする名瀑でした。
近くの岩肌を見ても、小さい砂のような小石のようなものが、ちゃんと大きな岩石本体にくっついており、まるでセメントか接着剤で一体となっている石が多く存在しています。そのぎざぎざのせいで、水が白くなるのは当然と言えば当然なのですが、その水量や流れる傾斜角度、そのスピードなどやはり、自然が生み出す偶然の所産には驚きます。
失礼ながら意外と観光客も多く、エレベーターやトンネルも完備されていて、比較的近くにもまだまだ知らない名所や旧跡があり、驚きと共にもっといろいろと知りたいことがたくさんあるなと改めて感じた、日本三大名瀑でした。
筑波山登山の翌日、あるモニュメントの打ち合わせを兼ねて、以前このブログの中でも紹介した彫刻家アベヒロマサ氏のアトリエを訪問いたしました。
最初に訪問させていただいたのが、震災の前だったので3年以上前のことで、当時はアトリエの改修もご自分で手掛けられている最中で、完全な完成形としてみるのは今回が初めてです。
アトリエ入口は当初計画の通りに、石彫りの小さな作品や、陶器の展示兼ショールーム「テッラ ものづくり工房」として、また奥のほうは実際に制作する為の作業場として綺麗に完成されていました。
そちらの方でしばしモニュメント制作の打ち合わせを行い、アベヒロマサ氏のお誘いで近くのご自宅に訪問させていただきました。
そちらでは、大谷石のピザ窯が既に暖められており、冷えたシャンパンやワインも準備されており、アベヒロマサ氏自慢の手料理で窯焼きローストビーフや、DOC水牛のモッツァレラチーズの窯焼きピザ、最後にはピザ生地で熱々のパンなど、前日の登山で消費したカロリーの数倍の摂取エネルギーを後悔無く取らせていただく至福の時を堪能させてもらいました。
尚、その時打ち合わせしたモニュメントは後日、グループ会社の盛岡支店の屋上看板に、周囲の驚きと共に見事に完成しております。
筑波山周辺は、日本でも有数の花崗岩産地であり、またたくさんの石材会社が集まる、石材加工集積地です。
真壁や稲田は地名でもありますが、石材名称でもあり、東日本では憧れの石材でもあります。
ちなみに、西日本では四国の庵治や大島、関西では花崗岩の名前の総称として位置付けられた御影、中部日本では岡崎など、日本にも多くの石の産地や加工集積地がありました。
筑波山全体が真壁石や稲田石と同じく、花崗岩系の石材で出来ていると思われ、女体山頂上を目材して歩けば、本当にたくさんの奇岩群に出合います。
なかでも有名なのが弁慶の七戻りといわれる、頭上5メートルほどのところに、まるで人口の門構えのように不自然な形状のまま乗っかっている巨岩があります。
あの勇敢な弁慶でさえ落ちて来るかと不安になり、7度も躊躇って戻ったという伝説があります。
また、国歌 君が代に出てくる「さざれ石」も日本全国いろいろな所で見かけますが、ここには小石が集合して他の物質と合わさって凝固した複合岩石も多く、いわゆるさざれ石状態のものも多く見受けられました。
若干不思議なのは「にぎり石」として展示されていた、土の中から掘り出されたという謎の石?ですが、石屋としてのコメントは控えさせていただこうと思います。(笑)
今年もようやくトレッキングのシーズンが始まり、今年二番目の登頂目標は西の富士山に対して東の、と言われる筑波山に登ってきました。
(ちなみに今年一番目の登頂は昨年同様に泉ヶ岳でした。)
筑波山にはいろいろな登頂ルートがあり、またロープウェイやケ ブルカー、また目標とする頂上も男体山と女体山の二つのピークありで、どれにするか迷いましたが、
今回はつつじヶ丘から女体山を目指す比較的急場の多い道を取りました。
ところが、つつじヶ丘の駐車場にはガマの彫刻やら建造物といっていいほどの大きなモニュメントやらガマ神社まで、とにかく「ガマ」だらけ。
トレッキングする前から、一大観光地化された周辺を見て、山登りというよりは物見遊山の観光気分となってしまい、なかなか気合が入りませんでした。
その先では、まさにガマの油売りの口上も始まり、思わず最前列に腰かけて、「タラーリ タラーリ」のガマの油の口上を、面白おかしく聞いてきました。
高尾山のトレッキングもそうですが、やはり都会の山は、ちょっと違いますね。
その場その場、その時期その時期で、いろんな経験が出来るのも良い事ですね。
今回はシンガポールの話の続きをしてみます。
前回コラムの通り、雑多な人種や国民性、言語や風習など世界的に類を見ない多様化の中で、いろいろな表現や芸術も多種多様に花開いています。
写真 はシンガポールのメインストリート オーチャード通りの歩道に、許可をもらってと思いますが、地面に描いた立体だまし絵です。
そこを道行く往来の人々が勝手に入り込んでこちらから見ると、まるで高いところに登っているような見え方になります。
この通りにはその他にもたくさんの芸術表現コーナーがあり、単に歩いているだけでも飽きることなく楽しめる場所です。
写真 は、巨大植物園の中の大きな広場に突如として現れる、大きな大きな赤ん坊のオブジェです。
作者名は表示されていますが、何の材質で作られているのか、何を現しているか、大きさがどの位かなど何も書かれていなくて、ただそこに巨大な赤ん坊が居る、という不思議なモニュメントです。
設置方法もミステリアスで、1か所を除きそのほとんどが空中に浮いています。
どのようにして設置しているのか、そこも不思議です。
写真 は街中の池の石です。
シンガポールは水が弱点でしたが、国家の中期戦略に基づき、今ではたくさんの用水地や国内のあらゆるところに溜池や沼を作って貯水しています。
単なる池ではつまらないのか、池の中に本来居るもの(魚やカエルやワニなど)を石に彫りこんで、その中に置いておくなどは芸術というよりも趣味やユーモアの世界なのかもしれません。
これは魚というよりシーラカンスなのでしょうか。
ライオンの頭と魚のしっぽを持ったマーライオンの国シンガポールには、独創的な芸術が根付いているのもわかるような気がします。
今回は少し堅い話になるかもしれませんが、国家トップや組織トップによる中期戦略、経営方針がいかに大きな意味を持つようになるかの実例を述べたいと思います。
シンガポールという国はよく知っていると思います。
また、一度は訪れたことがある方も多いと思います。
しかし、この国の建国は1965年といいますからまだ50年経っていない若い国で、
人口は約540万人、面積は700平方キロメートル(東京都23区の面積に近いそうです)という小国です。
国民は中国系、マレー系、インド系など人種が混在しており、当然ながら言語も北京語、マレー語、タミル語と英語の4種が公用語となっています。
さらには、宗教も仏教、道教、イスラム教、キリスト教、ヒンズー教などあり、生活習慣や風習も世界の縮図のように混在しています。
また、特異な産業も無く、農産物の特産品もそれほどありません。
特に水の問題が大きく、飲料のほとんどを外国からの輸入に頼っており、隣国のマレーシアから水を止められるとお手上げになるほどの状態です。
国としての弱点がこんなに多い国も少ないでしょう。
小国であり、人種も雑多で宗教も言語も複雑、産業も無く、水も無い、国を経営するうえではゼロからの出発というよりもマイナスから出発だったと思います。
シンガポールの初代首相となったリークワンユーが、全く逆転の発想で、株式会社シンガポールと呼ばれるまでの徹底した国家戦略で、今では一人あたりGDP は日本を越してアジアでもっとも豊かな国になっています。
また、バーチャル国家構想や7つの成長戦略など絶えず中期目標を掲げ、徹底して成長軌道を進めていること、更には外国からの訪問客を何度でも繰り返し来てもらうための、街づくりやアミューズメント、街並みのクリーンさや秩序の安全性など、まさに逆転戦略が花開き、結実している感があります。
最近のシンガポールの風景は、昔のマーライオン観光だけでなく、その先に造成したマリナベイサンズ(3つのホテル棟の上に巨大なプールがつながっている)や5年後には巨大ツリーが植物で覆われて完全な1本ずつの木になる植物園、セントーサ島にはユニバーサルスタジオ、巨大ホテルの地下には大理石の床や壁に囲まれた高級ブランドやカジノなど、今までは1度来たらあとは来ないシンガポールを何度も何回来ても楽しめるシンガポールに変えていこうとしているようです。
何事も続き時は続くようになっているのか、今回は講演や講師のお役目を受ける事が続きました。
地学研究会の石の講演、いきいきSUNクラブの終活の講演、そして今回は企業経営のお話を少しさせていただきました。
以前このコラムで記載しましたが、4年ほど前に上智大学で土曜日半日10回コースの一般人を対象としたエグゼクティブ・ビジネス・アカデミーという講座があり、その一期生として参加しました。
残念ながらその講座は第4回まで行われましたが、今は休止しているようです。
ところが第一期生である我々は、年齢や会社での立場や性格的に合ったのか、指導の教授を中心に10名全員が今でも交流を深め、折に触れて集まっています。
毎年のように、それぞれの会社や工場を訪問し、企業経営やビジネス環境を勉強しながらお互いに刺激を受け合う良い集まりとなっています。
今までも一流企業の工場の一般では見せてもらえない部分や、体験作業などを経験でき、貴重な研修が出来るよい企画がなされてきました。
今回はついにというか順番でというか、当社の番となり、私が幹事役を受けて土日二日間の研修行程を作らせていただきました。
メモリーランドの一番新しい店舗を見ていただき、次に墓石の工場、大理石の工場、ストックヤードなどを見ていただいてから、先ほど冒頭に述べた会社の現況や経営方針のお話などをさせていただきました。
よく、講演するにはかなりの準備が必要で、講演者自体がすごく勉強になる、と言われますが今回のわたくしもまったく同感で、その資料や話をまとめるために、普段はあまりしてこなかった会社経営の振り返りや、過去のデータや方針の歴史など自分自身にとって大変良い機会をいただきました。
終了後、ご参加の皆様からメール等でたくさん御礼を言っていただきましたが、こちらこそこのような機会を設けていただき感謝の念に堪えません。
夜は温泉と食事をともにし、夜更けるまで熱く経営を語り合う姿は、まさに企業戦士の皆様と感心ひとしおです。
次の日は被災地石巻の実情を見ていただくために、被害の最も大きかった石巻市門脇・南浜町付近を視察し、あわせて震災体験者の語り部の女性に当時の話などを聞き、こちらも感慨深い経験でした。
最後は松島石の出発地である瑞巌寺観光、松島湾遊覧船での島巡り、食事も初日の牛タン、翌日の穴子の刺身や鮨、牡蠣カレーパンなど地元を少しでもアピール出来たかなと思います。
よき仲間とよき酒とよき食べ物とよき話題、そしてよき景色を堪能した2日間でした。
東北の山は秋と冬の境があまり無く、日によって穏やかな秋晴れもあれば、時として厳しい冬日が隣り合わせていることがあります。
一昨年から始めたトレッキングも年中出来るわけもなく、冬山や雪山を避けて歩こうとすると、年のスタートは春というより初夏に近い5月の上旬で年の最終は10月末、やや天候を見ながらで11月初旬までといったところの半年の期間しかありません。
春先のトレッキング再開時期は冬の間の不摂生から体も重く体力もなく、なかなかしんどいのですが、逆に年の終わりごろの9月10月は気候も良いのと体も慣れて体力もついてきているのもあり、また紅葉や空気の透明度も良く、なるほど秋に山が渋滞する理由が最近理解できるようになりました。
秋はトレッキング上最高のシーズンではあります。
もう今年も店じまいしないといけないとは思いながらも、まだ登れるかと11月初旬に岩手県の八幡平に行きました。
下界は前日からの雨で朝までぐずついていたのですが、峠の駐車場に着くころには晴天、まさに秋晴れの良い天気。
無理をするつもりもなく、無理ならドライブでゆっくり回ってこようと思っていましたが、こんな青空ならと早速登り始めました。
登山口から15分ほど行ったところから、急激に曇り出し、どうしようかと思っている間に霰(あられ)が降りだし、次には5ミリほどの雹(ひょう)になり、あとは大きな粒の雪一面となりました。
一応常に雨具は入っていますので着用しましたが、その間登り始めて30分ほどの事です。
途中引き返すか、ここは回って戻るようなルートだったためそのまま行ったほうが結局近いのか、いろいろ考えましたが今回は半分を過ぎていると判断して回って戻りました。
考えてみると今年のトレッキングは、夏山の月山で頂上まであと少しというところで雷が鳴り、判断した結果そこで断念し下山しましたし、吾妻山でも大雨に出合って引き返しました。
山を目指すと、頂上までという欲も出ますし、あと少しならと油断も出ますが、山の師匠からは登山は下りて来るまでが大事であって登りや頂上が大事ではないです、と言われてたので、引き返す勇気を常に指導してもらっていました。
会社や仕事でも同じかもしれませんが、あと少しの無理をするか、ちょとっした背伸びで危険にならないか、次の行動を視野に入れた状況判断がとても大事だと感じます。
この日の下山中は雪に見舞われ、特に気温が低くて寒かったのですが、無事に駐車場に着くころにはまた天気も回復し、あらためて日が出てきたころには近くの紅葉がまさに見事で、雪に出合った恨みなどは充分に挽回できる良い景色を堪能できました。
不思議と続く時には連続するもので、久しぶりに地学研究会で講師依頼を受けて講演をさせていただきましたが、今回も久方ぶりのいきいきクラブの講演依頼がありお話をさせていただきました。
こちらのサークルは宮城県社会福祉協議会が主催している いきいきSUNクラブという集まりで、旅行に行ったり趣味の同好会があったり講演会やいきいき大学まである、シニアの方々のための活動をやられている団体です。
もともとは社員のお父さんのお仕事の関係から講演依頼があり、今回はその方の後輩にあたる事務局所長のご依頼にこたえたものでした。
今回の活動には定期的な会合として「いきいきSUNクラブ終活講座」という継続活動があったようですが、この度の講演は「終活講座番外編」と銘打って『当世お墓事情』を1時間半にわたってお話しさせていただきました。
「変わりつつある葬儀の現状」「多様化するお墓の現状」「想い入れのお墓つくり」「お墓は誰のためのもの」「最近のお墓の特徴」「お墓に向いている石」「家族の絆」などパワーポイントとDVDを利用しての講演に1時間10分ほど。あとは店舗から店長にも来てもらって実務的な質疑応答の時間を20分ほどとりました。
・夫婦が宗派違う場合にはどうすればいいの?
・はっきり言って金額はいくらくらいするの?
・いつ建てればいいの?工事期間はどのくらいかかるの?
・葬儀の事がわからないので詳しく教えて。
・会社のロゴになっている【磊】って何て読むの?
など、結構皆さん熱心に質問されて、最後まで時間いっぱいでした。
なかなかお店に来て質問するのは難しいのでしょうが、誰でも避けて通れず、いつかは考えないといけない、かといって相談する相手もいないという意味では、今回のような機会に疑問質問確認など、その一助となるようなら私もお話しさせていただいた意義があったのかと安心です。
何事にも行ってみないとわからない事や、現地で初めてわかる事などがたくさんあります。
今回は青森県鰺ヶ沢町を通った時に偶然見かけた『赤い靴の像』について書きたいと思います。
誰でも知っている事ですが、赤い靴は野口雨情作詞の童謡で以下のような歌詞が続きます。
赤い靴 はいてた 女の子 異人さんに 連れられて 行っちゃった
横浜の はとばから 船に乗って 異人さんに 連れられて 行っちゃった
今では 青い目に なっちゃって 異人さんの お国に いるんだろう
赤い靴 見るたび 考える 異人さんに 逢うたび 考える
この歌をモチーフにした女の子の像は、当然その波止場である横浜の山下公園にある事は知っていましたが、なぜ偶然通りがかった青森県鰺ヶ沢町で赤い靴の像があるのか全く理解出来ないまま、写真だけは撮ってきました。
鰺ヶ沢町と云えば大相撲の舞の海関の出身地であり、相撲が有名なのは知っていましたが、その像の石碑にある赤い靴のモデルの父親の鈴木史郎という人の出身地である事、更にはその鈴木史郎さんてどんな人なのかも含め全く知らない事が記載されており、逆に興味を持つようになりました。
調べた事を非常に簡単にまとめると、静岡県出身の岩崎かよさんがお母さんで、その娘きみ(明治35年7月15日生まれ)が実在のモデル。岩崎かよは未婚の母としてきみを育てていたが、北海道に渡り鰺ヶ沢出身の鈴木史郎と結婚。きみが3歳の時鈴木夫妻は北海道の開拓生活に入り、娘きみの養育をアメリカ人宣教師のヒュエット夫妻に託すことにした。
やがてヒュエット夫妻は本国に帰ることになるのだが、その時きみは結核に冒されておりアメリカに連れていくことが出来ず、東京麻布の孤児院に預けられ9歳で亡くなったという。
母かよ及び義父の鈴木史郎もきみはヒュエット夫妻と共にアメリカに渡ったものと思いこんでいて、札幌で親交のあった野口雨情にその話をしたものという。
しかし実際には、かよは孤児院にいて母親に会うことも叶わず短い生涯を終えていた。
幸いにも母は生涯その事を知らず、アメリカに渡った娘を思っていたという。
そんな話がこの童謡の裏にあるとは本当に知らない事ばかりです。
また横浜と鰺ヶ沢の他に、赤い靴の女の子の像はアメリカカリフォルニア州サンディエゴ市、静岡県日本平市、東京都麻布十番、北海道留寿都村、北海道小樽市、北海道函館市とそれぞれその物語の登場人物にちなんだ各地にあるそうです。
鰺ヶ沢の家族3人の像は、中国産白御影の小たたき仕上げに、インド産赤御影の本磨きのアクセントで、なにか暖かい家の中の畳の上で3人が暮らしている(本当は無かった事だけれど)ほのかな雰囲気の像でした。
悲しい物語ですが、それを知りえたのも現地に行って興味を持ったからだと、つくづく感じました。
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