HOME > 社長コラム 石のことば
2020年東京オリンピックのメイン会場となった新国立競技場ですが、受注した外人設計者の問題や予算の不透明さ、デザインやコンセプトの変更などを経て、最終的には隈研吾建築都市設計事務所のデザインによる今の形に決まって、突貫工事に次ぐ突貫で2020年に完工、そして1年遅れの東京オリンピックの無観客会場としてお披露目し新しい歴史のスタートを切りました。
通常の公共工事、特にこれだけ注目された建造物ですから、我々石材関連業者内で自社受注ではなくても業界の会社のどこがこの工事を受注して忙しいとか、間に合わないから協力してとかの噂や直接要請等必ずあるものなのですが、この案件に関しては全く我が石材関連業界にはお声がかかりませんでした。
そういう訳でなかなか新国立競技場の完成後の関心等薄かったのですが、近隣に用事があったこともあり先日実際に訪問し見てくることができました。
事前に今回の改正されたデザイン・設計のコンセプトは『日本らしさ』と「国産の木材利用」だったようです。
まさに、飛鳥時代の法隆寺の建築と同様、日本古来の木材建築を思い起こす使用方法です。
今までの建築には一般的に金属とコンクリートを主要材、そして意匠材として木材、タイル、ガラス、石材等を活用してきたのですが、今回の新国立競技場はコンクリートの使用がほとんど見られませんし(もちろん基礎や構造材でも一部使用されていますが、目に見える範囲では極端に少ないです)タイル、ガラスそして石材の使用も極端に少ない建物です。
ただし流石にあの巨大さですから、木材だけでは不可だったようで、鉄と木材のハイブリッド使用にこだわった、『日本らしさ』を強調し、今流行りのSDGSにも対応している建物となっています。
また、ここに使われている木材のうち、特に日本らしさを強調する「スギ」に関しては日本47都道府県全てから取り寄せて、日本中の杉の見本市の様になっています。
今までに無かった建築物で世界に誇れる日本らしい競技場だと思います。
ただ少しだけこのコラム「石のことば」の話題提供からすると、木材のメンテナンスの大変さや経年劣化あるいは摩耗のことを考えると、適材適所という言葉があるように劣化に強くメンテナンスフリーの「石材」の適切な場所への活用と、日本全県から少しずつ集めた地元の国産石材をこの建物の中で使用してもらえたら、もっと『日本らしさ』『日本の物産を使った』建築物になったのかなと業界人の目から見てしまっていました。
日本のスギと同様、日本全国には地元のイシ(国産石材)がたくさん有ることを知ってもらいたいと心から思っています。
今回のブログについては、書こうか書くまいか大変迷いました。
というのも、実名を出してしまうといろいろな規制もあり、指摘もあるので今まではなるべく触れずに、特に該当社から指摘を受けてからはその事自体、実体験も含めて無かったかのように振舞ってきました。
ただ今回そちらの施設も20周年という事で大々的なキャンペーンを張っていますし、もともとそこに対する思い入れもあり、好きなので改めて名前を伏せて載せてみようと思いました。
意味深長すぎて読者には何のこと?と思われるでしょうが、実はこの社長ブログの極めて初期に、ここの話題を3回に亘って載せました。
社長ブログの第4回から第6回まで欠番になっていることに気づく方はいないと思いますが、実は5年ほどはそのブログ文も存在していました。
ある有名な日本のテーマパークのパーク内にあるフラッグシップホテルの建設にかかわって、その大理石を調達するための苦労や、そのモデルとなったイタリアの漁村をそこの設計責任者たちと訪問し、よりリアルになるように修正を重ねて今に至った話や、だまし絵技法(トロンプールイユ)の職人の話など、言ってみれば制作裏話であり、私はその会社も大好きで良かれと思っての掲載でしたが、掲載から数年後その企業のブランド維持部門と思われるところから連絡があり、その時その3話をブログから削除したという次第でした。
今回、久しぶりにそのテーマパークを訪れて、ついでにその懐かしい、石一つ一つに思い入れのあるフラッグシップホテルに宿泊しました。
世界中から調達した色様々な大理石をまるで絵の具のように使い分けて、またモザイクのように石の形を絵柄に合わせて加工する、当社が保有する日本では数少ない石材の加工技術(ウオータージェット加工マシーン)を用いて、そのホテルのロビー・エレベータホール・チャペルなど最高傑作のまるで絵画のような大理石製品のお披露目の場として、自分自身では思い入れ一番の場所になっています。
20数年経って、やはり一番人の出入りの多いロビー床やEVホールの床石の摩耗消滅を心配していましたが、今でも凄まじく綺麗でその存在感たるや、永久に光り輝いているように思います。
このホテルの大理石の様々を見ていると、あの突貫で進めた数か月、そしてあの達成感、その後からくる貴重な経験値と学び、そしてそれ以降自分の石屋人生の糧になって人生観まで変えた壮絶な実体験だったと思っています。
読者の皆様には奥歯にものの挟まった言い方しか出来ず、今回は大変申し訳なく思いますが、実はこのホテルの大理石製品は私の青春を賭けたビックプロジェクトであり、当社の建築石材部門の過去最高の製品だったのです。
松島の当社の工場を中心に日本、イタリア、スペイン、ポルトガル、台湾、香港と世界中の大理石加工工場をフル稼働して、絶対に間に合わないと言われたオープン納期に間に合った経験もさることながら、コンセプトを絶対に外さないD社の仕事の進め方、複数社複数部門が協力して一つのことを成し遂げるリーダーシップなど、本当にこの仕事で得たことの多さに改めて感謝し、その完璧な自社の作品に改めて見とれました。
今一度同じような規模内容の大理石プロジェクトに出会うこともないとは思いますが、仮に有ったとしても、今の体力・気力でその壮大で世界を股に掛けた動きは難しいでしょう。
でもやっぱりあの仕事があったから今の自分がある、という仕事との出会いの一つであるのがこの現場でした。
とても誇りに感じます。
そして、時に自分に自信無くなったりしたら、また元気をもらいに訪れようと心に誓いました。
富士山は日本一の山とよく言われます。
標高は勿論日本一であるのは間違いありません。
ただ富士山が日本一と言われるのはもう一つその美しさ、孤高の姿ではないかと思っています。
そういう観点で山の姿の美しさ、視覚に訴える力で言ったら、日本一どころか世界有数、世界トップ3(あと2つが何かは明示できませんが)、いや世界1だと称してもいいように思います。(勝手な思い込みで申し訳ありません)
これは私だけなのでしょうか、富士山を見ると写真を撮りたくなる、撮った写真をみんなに見せたくなるという衝動があります。
富士山の美しさは単独峰であることで、裾野が長くきれいな曲線を持っていることや、稀にみる左右の対称性(シンメトリー)、そして雪に覆われた時の色彩のバランス、空中に浮かぶシルエットなど、視る者の美的感覚を奥底から刺激する完璧な美しさです。
新幹線で通り過ぎる時に1枚、飛行機で上を飛ぶ時に1枚、街中に滞在している時に1枚、日中の寒気の中で1枚、夕焼けの茜空を背景に1枚、湖に映った姿で1枚、桜の花びらと共に1枚、銀世界の中での1枚、、、、、富士山をメインにすればどんなショットも傑作写真となります。
考えてみると、浮世絵の葛飾北斎の富嶽三十六景や歌川広重の富士三十六景など、いわゆる画家の審美眼でも富士山には最大限の賛辞を示しているのがよくわかります。
あんなに美しい富士山も、近くに行ってみれば、溶岩がゴロゴロ。やはり噴火によって流れた火山岩、火山礫、火山灰の山です。
私は未だ登頂したことがないので大きなことは言えないですが、富士山登山はそれらの溶岩から出来た火山岩の道を登るので、乾燥しやすく埃っぽく、そして滑りやすくもちろん急こう配で酸素が薄い、、、、
私の信条として何にでも、年齢にも怖気ることなく、新しいことに挑戦し、世界を拡げるという思いがありますが、富士山登山は今まで縁が無かったのを幸いに登っていない理由として『富士山は登る山ではなく、観る山である』という友人の言葉を信じて登らずに、ひたすら写真を撮って人に見せびらかしているのかもしれません。
やはり言い訳になってしまっていますね。
体力の低下曲線と気力の低下曲線のシンメトリーの頂上にある富士山登山、いつか実現出来たら良いなと考えを一歩前進させようとこれを書いてて思い直しました。
『閉校』という言葉はあまり使うものではないですが、意味は分かります。
しかしながら、その言葉の中に含まれた心の思いは、今回それを実際に体験して初めて知ったような気がします。
実は44年前の桜が散り始めた春の日に初めて社会人として赴任した先の小学校から、この春で68年の歴史を閉じて学校が無くなるという通知が届き、多少重い気持ちと幾ばくかの懐かしさを胸にその閉校式に参列してきました。
場所は石巻市の外れ、旧荻浜村の先の更に奥の半島にあり、牧浜・竹浜・狐崎浜・鹿立浜・福貴浦浜の5漁村の為の小学校で、私が赴任した往時には全校児童53人の学校でした。
開校当初の一番子供の多かった時代は158名居たというので、へき地ではあってもそれなりの規模の学校でした。
それが、現在は6年生の女子2名だけの在校、そしていよいよ4月には児童数0という事であれば、閉校も致し方ないのですが、、、、
式典に参列しながら、若かりし頃の自分と純真な子どもたち、そして当時の心象風景を思い浮かべて感無量の数時間を過ごしました。
私が最初に受け持ったのは4年生10人のクラス(男8人、女2人)で、二年後にもう一度彼らが6年生になる時再度担任したので、この小学校に在籍した3年のうちの2年間この児童たちを受け持ちました。
よほどお互いに印象深かったのか、その後もこの子たちとは連絡を取り合っていて、男子の3人の結婚式には主賓挨拶をさせてもらいましたし、のちに高校の教師になった教え子には「先生の会社で募集しているなら、とても良い教え子がいるので紹介する」と言ってくれて入社してきた『教え子の教え子たち』は今も会社で中心的な役割を担って頑張ってもらっています。
この頃の自分を振り返ると、けっこう破天荒で今では赤面ものの行いもあったと思います。
一つ例にとると、その辺りは地方なだけに(時代的にも)PTAとの地区懇談会というのが1年に1回各漁村5か所それぞれで行われて、お父さん・お母さんと教員とで海の幸を前に多少のお酒とともに懇親・懇談会をするのが恒例でした。そこで私は地区のお父さん方と意気投合して、そのままお誘いに乗って児童の家に泊まらせてもらい翌朝子どもたちと一緒に歩いて学校に行ったりしました。今では大問題でしょうし、当時も校長先生から厳重注意がありました。
でも、その漁村の子どもたちは朝は両親ともに早朝から牡蠣むきやら漁やらで不在の中、自分たちで朝食を摂って片付けし、それから同じ漁村の子どもたちといわゆる集団登校のように誰からともなく声がけし集めて、そして約50分の坂道を登って登校する。そんな実態を学校で知っている、子どもたちの生活、学校以外の実態を知っている先生がいないので個人的には優越感を持ったりもしていました。
また、当時は男子には部活動として野球部というのがあり、地区の少年野球大会という漁村の子どもたちにとっては数少ない視野が拡がる活動があったのですが、女子には何もなくてそれまで女の子たちの活動の場すら無く相談する機会もなっかようでした。
私が赴任した年に、当時6年生だった活発な女の子が、私が年齢的に近く(いつの時代でも小学生からすれば、校長先生、教頭先生、教務主任の先生方はお父さんと云うよりお爺さんに見えたことでしょうから)若い新任なら話し易かったのかも知れません。「何か女の子の活動をしたい」と直訴してきて、それでミニバスケットボールチームを作ることになりました。
当時のルールは5分の4クオーター制で10人の登録選手を全員1回は出さないといけなかったのですが、普通の小学校なら6年生の中のそれも運動神経の良い体格に優れた子を選抜して選べるので、どの子を出しても問題無いし、仮に休んだり怪我したりした子がいれば補欠選手はいくらでも補充できる状況です。
ところがこの東浜小学校は当時、女子の数は6年生2名、5年生6名、4年生2名で、4年生以上の全女子児童を入れて初めてチームとして登録出来るぎりぎりの数です。
怪我人が出ても補欠選手もいません。さすがに3年生の女子は6年生と同じコートには立てさせられません。何とか大手校とまともに試合するには、、、
とにかく考えて悩んでミニバスケットに明け暮れ熱中していた毎日でした。
また、当地区(広域石巻圏)は県下でも強豪が集まるミニバスケットの激戦区で、通常強豪校はAチーム5人、Bチーム5人と固定していて、試合の相手によってA・A・B・AとかA・B・A・Bとか5人と5人のメンバーを何ら考慮の必要なく規定の10人1回出場義務を果たしていました。
こちらは、大手強豪校と同じ戦略では到底かなわないので、10人をそれぞれ役割に合わせて4チーム作り、このクオーターは攻撃主体、このクオーターはロングシュート主体(当時は未だロングシュートでも3ポイントにはならなかったですが)、このクオーターは守備主体やボール保持主体など、クオーター毎に高度な戦略が必要でした。
この時に選手の組み合わせ、スキルの組み合わせ、戦況によって変える柔軟な人材登用など、今の会社経営の基礎を知らずに学んだのかもしれません。
出場1年目は抽選の組み合わせくじも良かったのと、その子たちが私の戦術をよく理解し自分のその時その時の役割を実践できたのと、持ち前の漁村の女の子の勝気さでルーズボールをほとんどものにし、何と初出場第3位と学校始まって以来の大ニュースとなりました。
翌2年目は5年生女子6人が6年生となり、練習試合でも勝ち続けて、父兄や地区の住民まで熱が入り、とんでもない熱気に包まれました。地区大会決勝戦の体育館には漁船に靡かせる大漁旗が数十枚持ち込まれ、地区を挙げての大声援となりました。
決勝の相手は当時県大会で優勝し全国大会に出場した女川二小で、実力的には遠く及ばなかったものの、第2クオーターまでは同点で推移し子どもたちも必死にしがみつきました。
結果は栄えある準優勝!!!今でもこの時の子どもたちがあの舞台の晴れやかさ、へき地の学校で何か鬱積した気持ちを発散しやれば出来るという自信など、今でも心に残っていると言ってくれます。
3年目は6年生2人になってしまいベスト8止まりでしたが、その後も東浜小学校のミニバスケはしばらくの間小さな強豪校として地区の伝統となりました。
そのきっかけを作ってくれた最初の6年生の女の子菅野有美子さん(敢えて名前を出させてもらいます)は、初代のキャプテンで、後輩から慕われて、東浜小学校女子ミニバスケットチームの提唱者・創設者です。いつも明るく心身ともに元気で中学校に行って部活動にも熱心に取り組んでいましたが、中学2年生の時に白血病を患い中学3年に上がる少し前に惜しまれながら短い命を終えてしまいました。
亡くなる2週間前に病院にお見舞いに行って、「しばらく学校休んだから、勉強遅れないように教科書を見ているけど、分からない所は先生教えてね」と言われたのが最期になってしまいました。
これだけの地域の盛り上がりと、それに続く無形の女子バスケットの伝統を残し、後世に影響を与えたきっかけは彼女の存在こそであり、それを知っている者としてあらためて彼女の功労を讃えたいと思います。彼女の短い生涯でもこれだけ多くのものを遺せたことを誇らしく思います。
そんな諸々の思い出が心の中に去来し、現実の閉校式とそして当時の心象映像とが重なり合って、何とも表現のできない半日を経験しました。
なぜか昔話になってしまったので最後は、やはり「石のことば」に合わせて話をまとめたいと思います。
閉校式後に行われた閉校記念モニュメントの除幕式では、白御影石の台座に黒御影石の記念碑本体。
そのおもて面には校舎と校歌と地域行事の獅子舞が彫刻され、裏面には学校の歴史を刻んで、そしてそれぞれの心を映すかのように、何千人・何万人ものかけがえのない思い出をその碑の空白部分に刻んで、永く後世に伝える石碑(いしぶみ)としてお披露目されたことを報告して今回のお話としたいと思います。
東京でも銀座に次いで土地代の高い、高級エリアの真ん中に広大な面積の墓地があります。
いわずと知れた都立青山霊園です。
ここは明治7年に岐阜県美濃郡上藩の藩主の青山氏の下屋敷跡を寄付されて公共の霊園として開設されたものです。広さは26ヘクタールといいますから東京ドーム(4.7ヘクタールだそうです)5.5個分です。
(って、よく東京ドーム何個分という言い方がありますけど、東京ドームの体感の広さがわからないので、その何個分もよく理解できないのですが、何故それを一般的に基準にするのか不思議です。東京ドームは4.7ヘクタールだそうですが、例えばそこにサッカー場を入れるとやはり5.5個入るそうです。青山霊園の広さが東京ドーム5.5個分で、その東京ドームにサッカー場が5.5面入るとしたら、5.5×5.5=30.25 サッカー場が30面作れる広さってこと!!!、この方がわかりやすそう。)
まあいずれにしても、広大な面積の緑の安息地がそこに広がっています。
春には長い桜並木が一斉に花をつけて、よくニュースで流れるお花見スポットにもなっています。
都立の霊園には池袋にも雑司ヶ谷霊園、台東区には谷中霊園などもあり、それらには著名人や歴史上の人物のお墓もあり、趣味というほどのことではないのですが、歴史と石の好きな私にとっては、たまの散歩コースに霊園を歩くという事もあります。
特に近世、近代の歴史の本人が近くに眠っていることを考えると、何かワクワクするような気持で、霊園や墓石巡りをしたくなります。(決して変な人ではないので引かないでください。実際に生きた人の歴史を知っているだけに、自分のご先祖を思い、お墓参りするような気持ちです)
青山霊園の中でひときわ大きくて広い墓域と墓石は、大久保利通のお墓です。(写真②)
この人の事を意外と詳しく知らない(名前だけは知っている程度)方が多いと思いますが、日本の明治維新後のグランドデザインは全てこの大久保利通が作り、引っ張ってきました。
おそらく明治維新初期の中心が、この大久保以外であったら、かなり日本は立ち遅れて世界的に自立するのにさらに何十年も後になっていたことでしょう。
薩摩藩出身で初めは西郷隆盛や、長州の木戸孝允などと明治維新を主導しましたが、明治になって盟友の西郷隆盛が反政府側に立ち、大久保や木戸と対立しました。
それが明治10年の西南戦争です。
結果は大久保率いる政府側が勝利し西郷隆盛は自刃しますが、翌年明治11年その大久保も暴漢に襲われて亡くなってしまいます。
そのあたりの事は司馬遼太郎の長編『飛ぶが如く』に詳しく書かれていますが、その長い物語(文庫本で10巻)の最後の項は、その大久保利通が襲われて亡くなる経過を描いた「紀尾井坂」という章をもって終わっています。
現地青山霊園の大久保のお墓にもその最後の事や、一緒に居て難に合った馭者の中村太郎のお墓やその時に巻き添えで死んだ馬のお墓もあります。
まさに、『飛ぶが如く』の歴史小説そのままの情景が見られます。
また、少し離れたところでは御木本幸吉のお墓もありました。(写真③)
日本の銘品ミキモト真珠の創業者です。
この方には、名言・格言がたくさんあっていずれもとても有名です。
「誰もやったことがない仕事こそやり甲斐がある」
「人間には知恵が大切だが、物事の成功にはどうしても運が必要だ」
などは私も大いに共感しています。
少し風変わりなところでは
「世界中の女性の首を真珠で絞めて御覧に入れます」
というユーモラス?自信過剰?な名言もあります。
御木本家の墓域は、奥がシンプルにご先祖供養の五輪塔、隣に和形墓石、そして手前が何ともシンプルな洋型墓石という、石屋にはとても参考になるお墓です。
こうやって時々、霊園巡りも楽しくなってくるのですが、自分でこの青山霊園を求めようとするならば(もちろん、仮のお話ですよ)もともと予備の墓域がないので、返還された墓地の再募集がある場合ですが、、、何と一番小さな1区画(1.6平方メートル)で約500万円、少し広い区画(3.1平方メートル)だと1,000万円の墓地代です。もちろん墓石代は含まないのでこれに加算されます。
そして、その応募倍率ですが、最も低い倍率でも10倍から20倍の何とも狭き門(狭き確率)です。
やはり高額でも、高倍率でも、都心の一等地で歴史上の人物と一緒に死後を過ごせる青山霊園の人気は決して衰えないのでしょうね。
杜の都と称される仙台市内から西側に5km程行くと歌に唄われた広瀬川があり、そこに掛かる大橋を渡ると小高く聳える青葉山の下に至ります。
健康維持を図ってよくそこまでウオーキングし、そしてその先の標高150mほどの、有名な伊達政宗の居城仙台城(青葉城)跡までの心臓破りの坂を上って往復するのが、私の好きな散歩のコースとなっています。
普通は自動車も通るし、バス便もあり、歩道があるとはいえ車の排気ガス(今は電気自動車もあるので死語になりつつありますが)と騒音と一緒に汗をかいて登っています。
ところが今年の2月の地震でまたしても(2011年の震災の時以来)青葉城の石垣が崩れて車類は完全に通行止め、歩行者は別なルートを併用して城跡まで行けますし、もちろん車も八木山経由の別コース経由で入れるので、頂上(?)の城跡にはたくさんの観光客も来ていますが、基本的には通行止めの場所があちこちにできました。
2月の地震からもう10か月経っているのですが、通行止めしているだけで外から見ると何も進んでいない、やっぱり役所仕事は民間と比べると何事も遅いんだなあ、と普通に仕事の遅さを心で非難していました。
青葉城下の博物館の改修などは3年工期で閉館しており、なんとも気の長い工程で老い先短い高齢者(自分の事です)は早く改修を終わらせて、博物館のいろいろな企画展示を見たいという焦りのみ先行してしまいます。
カラーコーンと通行止めのスタンドで崩れた石垣に近付かないようにしていますが、少しは片づけたり車が通れるように出来ないのだろうか、10か月もかかっているのに、と勝手に憤慨して近くに行ってみると、実は何とちゃんとやっているではありませんか。
全ての崩れ落ちた外壁の石1個1個に番号が付けてあって、ちゃんと調査し対策していることがわかりました。
なんだ、お役所仕事だなって言ってそれは失言だったようですね。
ここからは、想像ですがおそらくその作業中なのだと思います。
その作業とは、1個1個に番号を付けて、その石の形状を電子データでスキャンして、全てのピースをデータに落としてから、旧石垣のどこに何番のピースを入れれば元の様に復元できるかというデスクワーク中と推察されます。
なるほど、この作業をしてから、現場の崩れた石を一旦別なところに運んで、そしてそのデータに基づいて番号付けしたピース1個1個をそのデジタル設計図に合わせて再組立てするという流れなのでしょう。
それなら3年、4年かかってしまうのも肯けるように思いました。
昔の石組みは職人の腕に頼るものでしたが、今の復元はデジタルに頼るのですねー。
時代の流れの変遷って考えると面白いですね。
そうやって登った先には、城跡のシンボルの伊達政宗騎馬像が、、、、
あれ、石の台の上でなく地面に降り立って鉄枠の中に、、、、
実はこれ、たった一瞬のチャンスでした。
その時の地震で石の台につながる馬の2本の脚(4脚のうち2脚だけで立っていました)が曲がってしまい、騎馬像自体が斜めに倒れたことにより、地震後1週間くらいで応急処理、そして引き下ろして修理に運ぶ前の一瞬のタイミングでした。
こちらは石垣のようなデジタルデータの複雑な作業は無いと思いますので、一日も早く馬の病院から退院して台座の上にその雄姿が戻ってくることを心待ちにしています。
(12月時点で未だカムバックしていません。おそらく戻ってくる時にはテレビ番組のニュースになるのでしょうね。)
『2011.3.11
津波は川から陸へと襲ってきました。
高さ8.6mもの津波が学校をのみこんだのです。
児童74名、教職員10名が犠牲となりました。
大川地区全体では418名が津波の犠牲となりました。
石巻市は、この事象と教訓を伝え続けるために
学校を震災遺構として残しました。
いのちについて考える場所となったのです。』
これは、旧石巻市立大川小学校の跡に新たに作られた大川震災伝承館で頂いてきたパンフレットの書き出しです。
気にはなっていた場所ではありましたが、なかなか足を向ける気分になれず実際に見に行くことは今までありませんでした。
今回、近くを通ったので、思い切って見に行くことにしました。
この学校で起きたとても悲しくて心が悼む出来事は、いろんなニュースやテレビ報道でも何度も何度も流れていたので、そのことに関しては触れません。
かけがえのない児童たちの想い出は保護者の皆さんにとって何にもぶつけられない辛い思いでしょうし、引率の教職員にとっても(まさかあの場所まで津波が来る…)なんて考えもしなかったでしょう。
長く司法などで争った経緯についてもこの伝承館では残されています。
そして、実際に現地に立つと川も見えなければ、海側の小さな小山に遮れられて全く海がそこにあるなんてわかりません。
ただ秋にしては強い日差しと微かな枯葉の匂いがそこに漂っているだけでした。
航空写真を見て初めて、この学校と海や川との位置関係がわかった次第です。
(写真②の上が震災前、下が震災後1か月ほどしてからの航空写真です。
大川小学校の位置は写真下部の大きな橋の右側斜め右上、山の麓の円形の建物です。)
ちなみに写真①は校庭内の野外ステージ壁に残された、当時の卒業児童の卒業制作の絵です。
はじめに、旧校舎、体育館、プール、野外ステージなどを無言のままに回り、その後震災後に建てられた震災伝承館でその資料を見、見つかったランドセルや教科書を見ていくうちに益々心に重圧を感じて先に進むことが出来ないくらいでした。
何とか心を持ち直して最後に供養碑や慈母観音像、鎮魂碑、希望のエンジェル像などが建ち並ぶエリアで少し落ち付かせてから戻ってきました。
私たちの仕事である石碑の役割は、後世に残す為であると自負していますが、このような生の震災遺構には及ぶべきもないものであり、実際の事象やその想いをもっと深く石に刻んでいかないとならないと改めて思った瞬間でした。
立ち去る時に見た供養碑のエンジェルの影が、天に向かって羽ばたいていく天使の姿を表していました。
前回に続き、大谷石の地下採掘場跡の訪問の話です。
この公開されている採掘場跡は140メートル×150メートルで約2万平方メートルあり、具体的な大きさで言うと野球場が一つ入ってしまう大きさです。
深さは地表から平均で30メートル、最も深い場所は地下60メートルもあります。
ここでは手掘りで採掘していた時代の跡、そして途中からは機械で採掘した時代の石の層が見られます。
手掘り時代はつるはしで掘っていたために石を採った後の壁面に鑿の後のような模様が残りますし、機械掘り時代はチェーンソー(写真②)で切り出すので、均一な波のような模様が残ります。
坑内を壁面に沿って歩いていくと、ここは古い時代だなとかこちらは比較的新しい機械式の採掘方法かとか、見れる人にしか見れないけどそこにはっきりと残っている事実を感じながら見学できます。
その中で、思わず足を止めて興味を持って写真を撮ったのは①の当時の採掘された石の大きさサンプルです。
私もこの業界に入社したての時に、この大きさのものを実際に扱っていたので、本当に懐かしい遠い青春の日を思い浮かべる媒体となりました。
いちばん一般的なのは「五十」というサイズです。
(ごとう)と呼びます。
「六十」は(ろくとう)、「五八」は(ごはち)と呼びます。
はじめ、「(ごとう)運んできて!」って言われて「後藤さんを呼んでくるのですか?」と質問を返したほどに、業界用語を知らなかった自分でした。
これは「寸尺表記」での基本サイズです。
「五十」は縦5寸(約15センチメートル)横10寸=1尺(約30センチメートル)長さは基本的には全て3尺(約90センチメートル)で統一されています。
つまり「五十」の石は15×30×90センチの1本の石で、これを基に塀や蔵や石製品を作っていきます。
もちろん「五八」は15×24×90センチですし、「六十」は18×30×90センチで、大きさによりその重さが変わってきます。
若かりし頃のひ弱な新入社員は、ベテラン社員が「五十」の石(約75キログラムあります)を両手でコロコロ回して運ぶ姿に、へっぴり腰で遅れながら回して運んだものでした。
ただ、次は「六十」だとか「七十」だとか言われると、なかなか動かせなくてビクともしない石を汗まみれで格闘していた遠い記憶を瞬間で思い出してしまいました。
③の写真は、その遠い記憶が宿ったような、幻想的なショットです。
個人的にはこの写真が最高の出来栄えと思っており、写真展にでも出しても賞が取れるかもしれないと自負している1枚です。
お題はそうですね【幽玄のタイムトンネル】でしょうか。
東北自動車道のパーキングに大谷P.Aという所があります。
そこには最近多くなってきたスマートインターチェンジが無いため、本当はそこのすぐ近くなのですが、その前後のI.C(インターチェンジ)で降りてまたこの大谷P.Aの辺りまで一般道を戻る必要がある場所なので、なかなか訪問する機会がなかったのですが、是非一度訪れたかった場所であり、漸くにして今回訪問してきました。
石の業界人なら大谷と言えば大谷石、過去の石で無く今でも現役の石材です。
過去の話をすれば、旧帝国ホテルで設計者フランク・ロイド・ライトがそれまで外装材、構造材として使用してきた大谷石を内装材としてふんだんに使った例が最大の例ですが、門塀や石蔵、柵や階段など生活の中の必要素材として数百年前から使われてきた一般の人々の生活に寄り添ってきた石材であり、その一大産地です。
専門用語になりますが、こちらの大谷石は火山灰由来の堆積岩に分類される凝灰岩となります。
実は当社ランドワーク株式会社・まつしまメモリーランドの基となった松島産業株式会社創業は、それと同じ凝灰岩である「松島石」「野蒜石」に由来しています。
今でも、その産地であった東松島市野蒜地区、宮戸地区には露天採掘の跡や、地下洞窟の跡が見られます。
ただ、この大谷地区の採掘規模は松島・野蒜の採掘場の数十倍~数百倍の大きさです。
そして今は大谷資料館という観光施設もあり、その中の地下採掘場は映画やテレビドラマの撮影場所しても活用されるほどの巨大さそして見ごたえの立派さです。
古くは薬師丸ひろ子の「セーラー服と機関銃」「ウルトラマン」シリーズや「仮面ライダー」シリーズの撮影、最近では「るろうに剣心」「翔んで埼玉」などの撮影でも使われているようです。
イタリアのトスカーナ州ピサの近くのカッラーラ地区に白大理石の巨大な超ド級の白大理石採掘地下広場は、その大谷採掘場を超える広さであり、この大谷採掘跡はそれには及ばないものの、ここは世界的にも珍しく日本では他を圧倒する有数の規模、広さ、美しさと思います。
中に入ると冷やりとした空気と共に厳粛な気分に覆われて、外界の暑さ猥雑さをすっかり忘れることが出来る空間だったと思います。
私が40年ほど前、初めて勤務した小学校のある半島を、そのままもう少し半島の突端に足を延ばすと牡鹿半島の鮎川という港町に着きます。
ここは商業捕鯨が有名でかつては人口も多く、金銭的にも裕福な賑わいのある田舎町でした。
今回はここが目当てではありません。
この鮎川であれば、多少遠くても車で来れるのでここ数十年の間でも何回か来ていると思います。
今回の目的地はその沖合に浮かぶ金華山という島です。
よく、気象番組では金華山沖〇〇キロメートルという表現で紹介されます。
もちろん船でしか行けません。
また、それも定期便と言われるのは、なんと日曜日しか運航しておらず、しかも予約制なので前日までに予約の連絡をして、週に1本きりの船で行くようになっています。
もちろん船をチャーターするケースもあるようですが、基本は皆さんこの日曜日の1本に乗られるようです。
鮎川から金華山までは乗ってしまえば20分もかかりません。
ただし帰りの船も1本しかないので、金華山滞在は約1時間30分となります。
思い起こすとここには何と中学3年生の時に友人2人とサイクリングで鮎川まで来て、それから自転車を置いて金華山に渡ったので、ちょうど半世紀前以来の金華山訪問となりました。
定期船が着いた港は桟橋のみが平らな場所で、船を降りたらすぐに急勾配の坂道と金華山黄金山神社の石碑がお出迎え。その後延々と上り坂が続きます。
歩いて20分ほどで神社の鳥居が見えてきます。
年をとったらなかなか参拝も大変だろうなあと心配していると、参拝者の利便を考えてか神社職員らしき人が運転するマイクロバスが送迎していて、参詣者を優先的に乗せているとの事でした。
この島の歴史を少し解説しますと、今から1270年前の聖武天皇時代、奈良の大仏を金のメッキで仕上げる為、輸入の金では不足していたところに日本で初めて金が見つかり、当時の陸奥の国主が金華山の黄金を献上したという由来があります。
そして祀られたのが黄金山神社です。金華山黄金山神社、なんと金尽しなのか。
もちろん今は堀り尽したのか、或いはその採掘地は金鉱や金脈でなく、いわゆる砂金だったのか、今ではどこが金採掘場所なのか比定されていません。
そして同じ陸奥の国(宮城県)内の涌谷という地にも黄金山神社というのがあり、そちらも国内初の産金地という触れ込みなので、この陸奥地方は間違いなく金が採れた地域だったのでしょう。
その金尽しの金華山黄金山神社には「三年続けてお詣りすれば、金(かね)に不自由はさせますまい」という御神徳が授かると言われています。
また、その派生なのでしょうが、「三年続けてお詣りしたら、悪い病気の再発を防ぐ」との信心もあるようで、現に私の友人も大腸がん治療後に3年続けてお詣りし、その後十数年経っていますが、元気に焼酎のボトルを空にしています。
当神社内には多数の石碑や石像、石の階段や欄間、そして結界となる石の欄干も各地の寄進者の名前を彫って納められています。
何より巨大なのは拝殿に向かう階段の前の花崗岩造りの大鳥居です。
途中で継ぎ合わせることなく縦方向1本ずつ2本、横方向1本ずつ2本、つまり开の字のとおり4本の長大な石の棒で作らています。
鳥居は基本的にはその通り4本で作るのが普通で、且つ安全面でも考えられているのですが、最近はその大きさが珍しく、場合によっては継ぎ合わせたり、重ねたりする場合もあるので、その作り方に注意して観察しましたが、やはり1本物でした。
なかなかの出来栄えと感心しました。
帰りの船の時間もあるので急いで今度は反対側を通って下り始めましたが、そちらは風光明媚な景色をバックに草を啄ばむ鹿の群れがいて、なんとも長閑な風景と陸から絶縁された孤島と金産出の黄金山神社の取り合わせの面白さに、思わず感心した小トリップとなりました。
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