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突然ですが質問です。
ポルトガルって、日本人にはどんなイメージがあるのでしょうか?
ヨーロッパにあるけど場所がよくわからないとか、場所はわからないけど一部はスペインに隣接している、サッカーのロナウドってポルトガル人だったかブラジル人だったか?のような反応が大概なのではないでしょうか?
実は大理石の輸入はかつては1番がイタリアで2番目がスペイン、その次に多いのはポルトガルでした。そして墓石に使う御影石は何とそのイタリアを抑えてポルトガルの花崗岩が日本によく入ってきていてブランド化していました。
その大きな理由は為替の関係で昔からフランスの元通貨フランやドイツのマルクなどは日本円に対して強く、イタリアの元通貨リラやスペインのペセタ、ポルトガルのエスクードなどが弱含みで貿易上のうまみがあったこと、もちろんイタリアとスペインは大理石の種類が豊富なこと、ポルトガルの御影石は日本の銘石にに似ていて目が細かく硬くて艶持ちが良かったせいもあります。
ただ実際にポルトガルでは地域によって産出される石材の種類が違って、リスボンを中心とした中央部は石灰岩(ライムストーン)がメインで日本でもよく使われており、モカクリームとかブランドマールと言われて輸入されています。
ポルトガルの北部ワインで有名なポルト地区辺りからは、グレー系や薄いピンク系の花崗岩がたくさん採れ、街並みも花崗岩造りのがっちりとした建物が並んでいます。
そして内陸のスペイン寄り東部地区からは30年前までは日本で大人気だったピンクの大理石ローズオーロラやリオーズチャイネットなどいわゆる大理石そのものも採れます。
そんなこんなで、私もヨーロッパでは訪問した回数順では一番がイタリア、次がスペイン、そして3番目がポルトガルという事で、ある程度ポルトガルの事は知っているつもりです。
でも、今回久々の訪問では初めてポルトガルの墓地に足を踏み入れました。
リスボンで一番人気のある路面電車(トラム)の28番ルートは街中やら丘の上そして海沿い迄網羅し観光客には最も利用しやすくリスボン観光を満喫できる路線となっており、なかなか途中での乗り降りは地元民でないと難しいですが、その終着駅ターミナルまで行けば、そこに目指すリスボン最大の墓地がありました。
中に入ってみると何と住宅地???の様に建物が並んでいます。
ほとんどが家のような一軒家の並びに見えるお墓です。
もちろん、他のヨーロッパで見られるモニュメント石塔が建っていてその下に土葬している墓域もありましたが、そちらはほんのわずか。
ほとんどが家型墓石でその数も半端なく圧倒される思いです。
なんか今まで訪れたイタリアやフランス、スペインの墓地とは違う雰囲気に戸惑いながら広大な墓地の探検となりました。
(その2に続く)
コロナ禍の数年というのは本当にそれまでの日常や普段どおりというのを制限し失くしてきていましたね。
私の中でも仕事こそマスクを付けながらやモバイルのTV会議を活用したりである程度は普通に通過してきましたが、旅行や登山(トレッキング)は本当に行けていなかったと思います。
もちろんすべての日本人が、いや全人類が普段以外の活動を抑えてきていました。
私も海外出張と県外登山はしばらく自粛していましたが、海外は中国の子会社訪問で解禁、トレッキングも4年振りに長野の北アルプスに挑戦することにしました。
日本には標高3,000メートル以上の山が23座あると言われています。(21とか27とか数え方での相違があるようですが)
そのうち有名なのは当然ながら1位の富士山3,776m、その後はほとんどが北、南アルプスの山々です。2位が南アルプスの北岳で3,193m、3位が北アルプスの奥穂高岳3,190m、その他槍ヶ岳や御嶽山など著名で登頂困難な山が並びます。
私のような初心者でも、3,000m級の山は憧れです。
実はその23座の3,000m超の山のうち2座だけ登った経験があります。
どちらも初心者向け、体力が無い人でも登れるという案内だったので、過去に登ってきました。
一つは富山県の立山で主峰が雄山3,003mで、もう一つが乗鞍岳3,025mでした。
ともに途中の登山口までケーブルカーやバスを利用し既に高度的には2,500mとか2,700mまで行けるので自力で登るのはあと少しという形です。
(3,000m級を登ったと言って自慢してきたのですが、内実をばらしてしまいました。)
特に乗鞍岳は標高2,700m迄バスが通っていて(逆に自家用車は自然保護の為に通行できないのでバスで行くしか方法が無い。)日本一標高の高いバス停の畳平(2,702m)から頂上を目指すことになります。
9年前の2014年8月にここは初3,000mの登山で、それほどきつく感じることなく割と簡単に登れた記憶があったので、4年ぶりの復活登山にこの乗鞍を選びました。
さて、いよいよ今回の復活登山。乗鞍スカイラインをバス車窓から眺め絶好の登山日和の中、畳平を出発、前回の気分で三分の1ほど登ったところで、前回とは全然違うきつい山、足が前に進まず息が苦しくこれは完登は無理かというくらいのペースでびっくり仰天、まるで以前とは全く違う山を登っているような感じでした。
コースタイム1時間半の倍近くかかったものの何とか頂上に到着、帰りもかなりきつい思いで降りてきました。
全く油断していましたが、軽いと思って登ったのは過去の話、何とそれから9年が経っていれば当然に体力も落ちてきており、更にはここ4年間というもの近場の軽い山は登っていても、本格的な登山の経験値が無くなっていたことで、同じ山でも全く違うきつさを体に受け止めざるを得なかったものと思いました。
やっぱり3,000mの山は大変だと思い返した次第でした。
今回その流れでこちらは3,000mは無い2,932mが主峰の白馬岳や有名な唐松岳の登山途中道(こちらは初心者は絶対無理ですし、途中で山小屋に泊まらないと行けない上級者コース)の八方池、八方尾根までは、ゴンドラと2つのリフト計3つの乗り物で標高を稼いで標高2,000mほどの八方池を見てきました。
乗鞍岳の登山道もそうでしたが、ここ八方尾根や白馬岳のエリアは蛇紋岩と言われる緑の石が多く、岩石が多い砂利道も濃緑色から淡緑色の蛇紋岩特有の色で、花崗岩の多い他の山の白色からグレー色の砂利道とは違っていました。
蛇紋岩は専門的に言うと花崗岩の仲間ではなく橄欖岩(かんらんがん)などが変性して出来たものでマグネシウムや鉄分を多く含み色合いが濃い緑系として出てきます。
近くにあった石材で作ったと思われる八方ケルンも、使われた石は濃緑色や薄緑色でこれらは蛇紋岩が多く使用されているように思います。
話は戻り、乗鞍岳からほうほうの態で下山し、前回(9年前)は早々に松本市内に到着して昼の松本城を見学できたのですが、今回は登山の体力不足で到着が遅くなり夜となりましたが、堀に映ったライトアップの夜景の松本城を見れて、これはこれで得した気分で復活の3,000m登山を終えました。
前回は3年振りの中国出張のバタバタ顛末を書きました。
今回はその半年後の9月の中国訪問の事です。
またまた、ビザ取得から始まります。(実は中国ビザの種類にはシングル(1回限り)ダブル(2回有効)マルチ(複数回可能)の3種類の訪問ビザがありますが、回数が増えるほど取得の為のお金と手間がかかります。
今回は前回の代理店を変えて、ビザ取得に対して顧客側に立って相談に乗ってくれる業者と担当者を紹介受けそちらに依頼しました。
どうせ行く予定があるのなら、マルチを取っておいた方がいいのではないか、又前回の中国ビザセンター窓口での写真と指紋のデータが残っていれば、本人が並ぶ必要が無いとのアドバイスを受けて新しい代理店に一切を任せました。
申請書記載の為に多少のやり取りはあったものの、前回の申請と比べると半分も4分の1も手間がかからずマルチのビザが添付されたパスポートを取得できました。
次に、飛行機の方もANA,JALなど日本籍の航空会社の直行便は未だでしたが、中国籍の厦門航空が関西空港ー厦門空港の直行便があり、そちらを予約しました。
(ただし、東京から行くとなると羽田ー関西空港、関西空港ー厦門と乗換えがあるので東京直行でない分は未だ不便さを感じますが、、、)
更には、例の実際には提示義務の無かったPCR陰性証明書も、中国政府にて正式な方針が発表され渡航予定前日からは全ての外国人に対して完全に不要になりました。
それらも含め、カウンターにて前回とは大きく違い何らの不安も無くチケット発券してもらい、前回の半分ほどの手間で出国、中国入国を果たせました。
ただ、実は2回目の訪中の方がいろいろ問題があったのは皮肉なもので、何事にも完璧という状態は無いものだと思いました。
その理由は台風の直撃コースに台湾とその真向いの厦門が入っていたからです。
日本では台風9号、11号と呼ばれるアベック台風でしたが、9号はちょうど厦門に行く頃に直撃コース、11号が帰る頃に直撃という進路予想だったからです。
出発の当日朝まで台風進路予想を毎時発表毎に見て、最終的には出発の3時間前に9号が厦門からかなり南に逸れそうだとの進路予想に変わり、また帰国の頃に当たりそうな11号は大きく北への進路予想で、上海の方に抜けそうだとの情報を得て渡航を決断しました。
(結局、9号はその後も南に進路を変更し、かなり南の香港を直撃し甚大な被害が現地のテレビで放映されていました。)
訪問中はいろいろと難しい判断や打ち合わせもありましたが、最終的には天候が崩れることなく何とか当初の予定をすべて完了させる事が出来ました。
さていよいよ帰りの飛行機と台風11号の関係です。
はじめは厦門よりかなり北の上海辺りへの上陸予想で、帰りはある程度安心もしていたのですが、1日ごとにコースが南に変更され、ちょうど帰る日の前後に厦門を直撃する進路予想に変わってしまいました。
完全に帰る日程と台風直撃が重なるようなら、1日前又は半日前でも経由を変更して予定通り戻れるような別便の航路も検討してはいましたが、実際の動きでは台湾上空でスピードが遅くなり何と紙一重の差で出発翌日に厦門に上陸し直撃となりましたが、私の出発時には風も雨も影響なく予定通り関西空港に向けて飛び立ちました。
私が飛び立った後の現地では、その台風11号が翌日から雨台風となり、前日まで滞在した福建省中部地区は多くの建物が床上浸水、厦門市内の当社厦門事務所前の道路も冠水し通行止め、飛行機便にも大幅な遅延や運休が出てしまいました。
全く間一髪の中国訪問第2回目でした。
当社の中国事務所社員からは『幸運・強運の持ち主』と言われたものの、社員の実家での浸水被害や強風被害の報を聞くと素直に喜べない思いでした。
ここで話題を変えて、
今回は、台風が来る前の最終日に、久しぶりに中国に来始めた頃から大好きな食材、西北拉麺(シーペーラーメン)を食べたくなってお店に行ってきました。
中国の少数民族であるウイグル族(回教徒)の人たちが福建省やアモイ市内でチェーン店展開している庶民的なラーメン屋さんです。
今から20数年前、中国の事務所に来ると3日に1回くらいはこのラーメンを食べていました。安いというのもありますが(当時は1皿5元、当時のレートで80円位)味が日本人の舌に合っていたからだと思います。
一時は厦門エリアにチェーン店が100件を超えるほどに増えましたが、店ごとに微妙に味付けが違っており、私が通い詰めたお店はなくなっていましたが同じ看板の店があり、その昔の味を偲んできました。
メニュー看板にはいろんな料理も映っていますが、私は昔食べた一番ポピュラーな廉価ラーメンを注文しました。(今は前と同じもので1皿15元、現在のレート換算では300円強)
多少味は変わったように感じましたが、懐かしく、美味しくいただきました。
・・・・・
今回これで締めたら石のことばに関係なくなりますよね。
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実は、この厦門でしか食べれない幻のラーメン西北拉麺が日本に1件だけあるんです。
シーペイラーメン水天宮とググると出ると思います。
こちらのお店のオーナーは我々と同じく石材会社の方で、厦門で石の仕事をしている間、毎日現地の西北拉麺を食べ歩き、ついに日本支店の出店を認めてもらい(門外不出だった為、許可を受けるまで6年かかったそうです)水天宮に出店したという事です。
こちらの石材の会社とは直接のやり取りが無いのですが、同じ頃に同じ地域で同じ仕事をしながら、同じ食べ物に感激していた事実から、何か近しい思いを持ってしまいます。
まだこちらの店でシーペイラーメンを頂いたことが無いのですが、ラーメンのこと、石材のこと、厦門地域のことをカウンター越しに店主と話せる日が来るといいなと思っています。
もう、少しずつ忘れかけてしまっていますが、2020年の初めからコロナが蔓延して各国が移動の自粛や国境を閉ざしてしまい、ほとんど海外に行くという事が出来ていませんでした。
私も2020年の1月にシンガポールから戻ってから今年2023年迄の3年間は全くパスポートを使うという事がありませんでした。
グループ会社が中国福建省にあり、仕事上の打ち合わせやその他の用事もあって何とか渡航可能になった今年の3月に、そして半年後の9月に今年2度目の中国出張に行ってきました。
今年1回目となった3月の渡航は本当に大変で、空港も税関も全てにおいて規制規制、また新システム導入の不慣れによる混乱とで以前とは比較できないほどの大変さでした。
先ずは、出発前の中国入国ビザ取得から始まります。
以前は日本人にはビザ取得無しで中国入国は認められていましたが、コロナ後の現在は中国に入るにはアメリカ人も韓国人もユーロ圏も日本人同様ビザが無いと行けません。
その取得も1回目はお台場有明の中国ビザ申請センターで本人が出向かないと申請できず、その日程予約に数日かかりましたが、更にその前のビザ申請用紙への記入が何と十数枚にものぼる膨大なデータの記入と独特なサイズの顔写真データ添付など、その申請用紙作成だけでも中途半端な訪中意欲なら砕け散ってしまいそうなほどの作業量でした。
その申請書を準備してから、登録している申請代理会社(中国系の会社)を通して、現地窓口日程を確保して朝8時前から並びましたが、それでも待つこと2時間以上かかり、窓口の作業(顔写真撮影と指紋データ撮影)を終える頃には3時間近くかかっていました。
それから1週間ほどでビザの張り付いたパスポートが戻ってきて、漸く出国準備が叶い飛行機の手続きを確定させました。
以前は全日空便で成田ー厦門(アモイ、福建省)の直行便がほぼ毎日あり、3泊程度なら国内旅行と変わらず気軽に行けたのですが、コロナで全く需要がなくなりその便の復活は未だでした。
経由便を乗り継ぐしかなく選んだのは、羽田ー上海、上海ー厦門というルートでした。
事前に中国側からも石材関係者が訪日しており、以前に比べるといろいろな規制は少なくなったという報告も聞いてて、ある程度以前並みの手続きで上海、厦門と行けるものと思っていましたが、羽田のJALのカウンターでとんでもない事を言われてしまいました。
飛行機のチケット、パスポート、有効なビザ、乗継のチケット、ホテルの予約表、日本で受けたワクチン接種の証明データ等、旅行会社と打合せした準備は完全だったはずなのにJALとしては発券出来ないという対応。
何と!3月下旬から緩和されたという24時間以内のPCR陰性証明書の添付が無いという事での拒否でした。
実際にはもうほとんどその証明書提示は必須でなく、それよりも中国語の携帯We-chatから入力する健康調査票の完了後に出るバーコード提示で可能だとの報道もありそれを信じて陰性証明書の準備はしていませんでした。
カンターの職員に聞くと羽田空港内にも臨時の検査所があって、予約無しでも検査してもらえるとの言でしたが、何とその開始時間は飛行機の出発時間と同じ、又検査後書面としてもらえるのはさらにその2時間後という事で、この飛行機には今から検査を受けても乗れません!とはっきりと断れてしまいました。
3泊4日とはいえ、その前後の国内の予定の調整や仕事の変更など、一旦出直して再予約とい選択肢も考えましたがそこはあきらめの悪いたちなので、何とか今日中に行く方法はないか、本当にJALの窓口で言っていることは正しいのか各所に連絡をしながら対策を練りました。
24時間以内のPCR検査証というのは実際には提示する必要や機会はなくなっているが、中国外務省のホームページにはまだ残っているので持っていないと発券した飛行機会社の責任になるというのが、その拒絶の理由のようでした。
一応、羽田空港1階のPCR検査場の開場に合わせて検査を行い、なるべく早くでの陰性証明書現物書類を受け取りながら、別な当日ルートを探し続けました。
台湾籍の中華航空便で羽田ー台北、台北ー厦門が何とか当日中に行けそうなのでそちらのチケットに変更し、出直しして中華航空のカウンターに手続きに行きました。
そこでは、各種の書類の提示を求められたものの、せっかく取った陰性証明書には何ら触れられることなく、そのまま発券され搭乗、台湾到着後の台湾-厦門便では、先程の中国版健康調査票のデータ入力を義務付けられたものの陰性証明書の提示はなく中国の入管までたどり着きました。
結果は陰性証明書所持云々は全く関係なく、そのWe‐chat(日本版LINEのようなもの)から入力する電子データを提示することで容易に入国可能でした。
中国の表面上と運用の公然とした使い分け、そして日本の原則重視の融通の難しさ、何となく国柄が反映されたように思いました。
その3月の訪中では、20年以上の取引のあった中国石材会社の社長が亡くなってからの5回忌訪問、又その子息たちの会社承継存続の打合せなども出来、陰性証明書の要不要問題はあったものの出張を強行してよかったと思っています。
亡くなった社長と私とは中国で言われる老朋友(親友)といえる仲で、石材の仕事のことから家族のこと(息子さんが二人居て家業を手伝っていた)や長男の結婚式に招待されたりしていました。
過去年に数回の中国出張でも、ほぼ毎回彼に会って食事も共にしましたが、体調を崩して入院したとの報告を受けてから、訃報を聞くまでの短い期間に再度会うことはかないませんでした。
その後家族会議をして、彼の奥さんが社長、息子二人が協力して石材会社を継続するという報告を受けていたのである意味安心していた部分もありました。
ただその後コロナによる世界的な貿易の低迷や、不景気を乗越えるにはやはり力不足だったのか、事業を縮小または閉じたいという相談がありました。
石材関連だけでなく、日本だけでなく、あらゆる業種・全ての国に於いても事業承継や事業の継続はすごく難しいものだと改めて感じ入りました。
結果としては以前から長男が兼務していた自動車販売関連、次男は旧工場の賃貸事業などに事業転換し、長く続いた石材会社は畳んでしまいました。
材料としての石は残っても、父親の意思を引継いだ会社は閉鎖されてしまいました。
私にも寂しさと大きな心の穴が出来てしまいましたが、彼ら家族のためと将来の為には、私の老朋友も閉めた事を認めてくれるのだろうと思い直して第1回目は帰途につきました。
「狼煙」という漢字の読み方はご存知だと思います。
「のろし」は今は環境的にも使われなくなりましたが、モノを焼いて煙や炎を上げてそれを離れたところから確認することで、危険や情報の伝達に使っていました。
なぜその「のろし」にオオカミの漢字が使われるか、調べてみると面白いことがわかりました。
中国の万里の長城は秦の始皇帝からその建造が始まりましたが、北方の騎馬民族の襲来を防ぐ目的だったことは有名です。
その万里の長城にはある一定の距離ごとに狼煙台として使われた遺構が残っており、つまり万里の長城のどこかで騎馬民族の襲来を受けると、そこから順々に狼煙を上げて危険を知らせたと考えられます。
その狼煙に使われたのが「狼糞煙直上、烽火用之」(オオカミのフンの煙を直上させて、烽火に之を用いた)と記載があるそうです。
「のろし」には他の漢字で「烽火」「狼火」「狼燧」などを当てることもありますが、上記の文章から「狼煙」が一般的になったものかと思います。
今回はその狼煙の一般名詞ではなく、地名としての「狼煙」についてです。
その場所は能登半島の先端、いわゆる奥能登の石川県珠洲市狼煙町です。
なかなか距離もあり簡単に行ける場所でもないのですが、少し足を延ばしてその先端をぐるっと回ってみました。
そこで見えたのが「道の駅 狼煙」
何ともインパクトのある名称でしょうか?
そこは普通に半島を回る周遊道路に面した施設で特に変わったところはなく、名物の豆腐やおからドーナッツ、豆乳ソフトクリームなど美味しいものが並んでいました。
なぜ「狼煙」という疑問はすぐに解決、近くに灯台があり狼煙の灯台という通称や地区名自体が狼煙だからです。
早速その道の駅から徒歩10分程の岬の先端、能登半島の最西端にある正式名称「禄剛崎灯台(ろっこうさきとうだい)」がありました。
古くは日本海を航行する北前船に能登半島の先端がここにあるという目印として狼煙を上げていたことからの命名だろうと思います。
今はGPSやレーダーが発達して沖を行く船にとって狼煙や灯台は必要なくなり、この禄剛崎灯台は無人となり使われることはなくなったそうですが、「日本の灯台50選」や「恋する灯台」にもえらばれ、海から昇る朝日と海へと沈む夕陽が同じ場所から見えると観光のスポットになっているようです。
個人的には最近改めて読み直した司馬遼太郎の「菜の花の沖」(江戸時代の北前船の船長である高田屋嘉平が、ロシアとの外交問題で日本の幕府との間に立って戦争の危機を回避した一般人として描いている)の中に何度も出てくる能登沖の航海の難しさや難破の危機、それを回避するための岬の重要性や明かりのことを思い起こし、その高田嘉平が乗った船もこの岬の狼煙を見て航海していたのかと、時を離れて同じものを見たような気になっていました。
また、この灯台の周りにはたくさんの石碑があって、歴史をつなぎ、また新たにここが日本の中心円の始点であるとの見解を記した碑もあり、周りの石の碑を見ているだけでも時間が過ぎていきました。
2020年東京オリンピックのメイン会場となった新国立競技場ですが、受注した外人設計者の問題や予算の不透明さ、デザインやコンセプトの変更などを経て、最終的には隈研吾建築都市設計事務所のデザインによる今の形に決まって、突貫工事に次ぐ突貫で2020年に完工、そして1年遅れの東京オリンピックの無観客会場としてお披露目し新しい歴史のスタートを切りました。
通常の公共工事、特にこれだけ注目された建造物ですから、我々石材関連業者内で自社受注ではなくても業界の会社のどこがこの工事を受注して忙しいとか、間に合わないから協力してとかの噂や直接要請等必ずあるものなのですが、この案件に関しては全く我が石材関連業界にはお声がかかりませんでした。
そういう訳でなかなか新国立競技場の完成後の関心等薄かったのですが、近隣に用事があったこともあり先日実際に訪問し見てくることができました。
事前に今回の改正されたデザイン・設計のコンセプトは『日本らしさ』と「国産の木材利用」だったようです。
まさに、飛鳥時代の法隆寺の建築と同様、日本古来の木材建築を思い起こす使用方法です。
今までの建築には一般的に金属とコンクリートを主要材、そして意匠材として木材、タイル、ガラス、石材等を活用してきたのですが、今回の新国立競技場はコンクリートの使用がほとんど見られませんし(もちろん基礎や構造材でも一部使用されていますが、目に見える範囲では極端に少ないです)タイル、ガラスそして石材の使用も極端に少ない建物です。
ただし流石にあの巨大さですから、木材だけでは不可だったようで、鉄と木材のハイブリッド使用にこだわった、『日本らしさ』を強調し、今流行りのSDGSにも対応している建物となっています。
また、ここに使われている木材のうち、特に日本らしさを強調する「スギ」に関しては日本47都道府県全てから取り寄せて、日本中の杉の見本市の様になっています。
今までに無かった建築物で世界に誇れる日本らしい競技場だと思います。
ただ少しだけこのコラム「石のことば」の話題提供からすると、木材のメンテナンスの大変さや経年劣化あるいは摩耗のことを考えると、適材適所という言葉があるように劣化に強くメンテナンスフリーの「石材」の適切な場所への活用と、日本全県から少しずつ集めた地元の国産石材をこの建物の中で使用してもらえたら、もっと『日本らしさ』『日本の物産を使った』建築物になったのかなと業界人の目から見てしまっていました。
日本のスギと同様、日本全国には地元のイシ(国産石材)がたくさん有ることを知ってもらいたいと心から思っています。
今回のブログについては、書こうか書くまいか大変迷いました。
というのも、実名を出してしまうといろいろな規制もあり、指摘もあるので今まではなるべく触れずに、特に該当社から指摘を受けてからはその事自体、実体験も含めて無かったかのように振舞ってきました。
ただ今回そちらの施設も20周年という事で大々的なキャンペーンを張っていますし、もともとそこに対する思い入れもあり、好きなので改めて名前を伏せて載せてみようと思いました。
意味深長すぎて読者には何のこと?と思われるでしょうが、実はこの社長ブログの極めて初期に、ここの話題を3回に亘って載せました。
社長ブログの第4回から第6回まで欠番になっていることに気づく方はいないと思いますが、実は5年ほどはそのブログ文も存在していました。
ある有名な日本のテーマパークのパーク内にあるフラッグシップホテルの建設にかかわって、その大理石を調達するための苦労や、そのモデルとなったイタリアの漁村をそこの設計責任者たちと訪問し、よりリアルになるように修正を重ねて今に至った話や、だまし絵技法(トロンプールイユ)の職人の話など、言ってみれば制作裏話であり、私はその会社も大好きで良かれと思っての掲載でしたが、掲載から数年後その企業のブランド維持部門と思われるところから連絡があり、その時その3話をブログから削除したという次第でした。
今回、久しぶりにそのテーマパークを訪れて、ついでにその懐かしい、石一つ一つに思い入れのあるフラッグシップホテルに宿泊しました。
世界中から調達した色様々な大理石をまるで絵の具のように使い分けて、またモザイクのように石の形を絵柄に合わせて加工する、当社が保有する日本では数少ない石材の加工技術(ウオータージェット加工マシーン)を用いて、そのホテルのロビー・エレベータホール・チャペルなど最高傑作のまるで絵画のような大理石製品のお披露目の場として、自分自身では思い入れ一番の場所になっています。
20数年経って、やはり一番人の出入りの多いロビー床やEVホールの床石の摩耗消滅を心配していましたが、今でも凄まじく綺麗でその存在感たるや、永久に光り輝いているように思います。
このホテルの大理石の様々を見ていると、あの突貫で進めた数か月、そしてあの達成感、その後からくる貴重な経験値と学び、そしてそれ以降自分の石屋人生の糧になって人生観まで変えた壮絶な実体験だったと思っています。
読者の皆様には奥歯にものの挟まった言い方しか出来ず、今回は大変申し訳なく思いますが、実はこのホテルの大理石製品は私の青春を賭けたビックプロジェクトであり、当社の建築石材部門の過去最高の製品だったのです。
松島の当社の工場を中心に日本、イタリア、スペイン、ポルトガル、台湾、香港と世界中の大理石加工工場をフル稼働して、絶対に間に合わないと言われたオープン納期に間に合った経験もさることながら、コンセプトを絶対に外さないD社の仕事の進め方、複数社複数部門が協力して一つのことを成し遂げるリーダーシップなど、本当にこの仕事で得たことの多さに改めて感謝し、その完璧な自社の作品に改めて見とれました。
今一度同じような規模内容の大理石プロジェクトに出会うこともないとは思いますが、仮に有ったとしても、今の体力・気力でその壮大で世界を股に掛けた動きは難しいでしょう。
でもやっぱりあの仕事があったから今の自分がある、という仕事との出会いの一つであるのがこの現場でした。
とても誇りに感じます。
そして、時に自分に自信無くなったりしたら、また元気をもらいに訪れようと心に誓いました。
富士山は日本一の山とよく言われます。
標高は勿論日本一であるのは間違いありません。
ただ富士山が日本一と言われるのはもう一つその美しさ、孤高の姿ではないかと思っています。
そういう観点で山の姿の美しさ、視覚に訴える力で言ったら、日本一どころか世界有数、世界トップ3(あと2つが何かは明示できませんが)、いや世界1だと称してもいいように思います。(勝手な思い込みで申し訳ありません)
これは私だけなのでしょうか、富士山を見ると写真を撮りたくなる、撮った写真をみんなに見せたくなるという衝動があります。
富士山の美しさは単独峰であることで、裾野が長くきれいな曲線を持っていることや、稀にみる左右の対称性(シンメトリー)、そして雪に覆われた時の色彩のバランス、空中に浮かぶシルエットなど、視る者の美的感覚を奥底から刺激する完璧な美しさです。
新幹線で通り過ぎる時に1枚、飛行機で上を飛ぶ時に1枚、街中に滞在している時に1枚、日中の寒気の中で1枚、夕焼けの茜空を背景に1枚、湖に映った姿で1枚、桜の花びらと共に1枚、銀世界の中での1枚、、、、、富士山をメインにすればどんなショットも傑作写真となります。
考えてみると、浮世絵の葛飾北斎の富嶽三十六景や歌川広重の富士三十六景など、いわゆる画家の審美眼でも富士山には最大限の賛辞を示しているのがよくわかります。
あんなに美しい富士山も、近くに行ってみれば、溶岩がゴロゴロ。やはり噴火によって流れた火山岩、火山礫、火山灰の山です。
私は未だ登頂したことがないので大きなことは言えないですが、富士山登山はそれらの溶岩から出来た火山岩の道を登るので、乾燥しやすく埃っぽく、そして滑りやすくもちろん急こう配で酸素が薄い、、、、
私の信条として何にでも、年齢にも怖気ることなく、新しいことに挑戦し、世界を拡げるという思いがありますが、富士山登山は今まで縁が無かったのを幸いに登っていない理由として『富士山は登る山ではなく、観る山である』という友人の言葉を信じて登らずに、ひたすら写真を撮って人に見せびらかしているのかもしれません。
やはり言い訳になってしまっていますね。
体力の低下曲線と気力の低下曲線のシンメトリーの頂上にある富士山登山、いつか実現出来たら良いなと考えを一歩前進させようとこれを書いてて思い直しました。
『閉校』という言葉はあまり使うものではないですが、意味は分かります。
しかしながら、その言葉の中に含まれた心の思いは、今回それを実際に体験して初めて知ったような気がします。
実は44年前の桜が散り始めた春の日に初めて社会人として赴任した先の小学校から、この春で68年の歴史を閉じて学校が無くなるという通知が届き、多少重い気持ちと幾ばくかの懐かしさを胸にその閉校式に参列してきました。
場所は石巻市の外れ、旧荻浜村の先の更に奥の半島にあり、牧浜・竹浜・狐崎浜・鹿立浜・福貴浦浜の5漁村の為の小学校で、私が赴任した往時には全校児童53人の学校でした。
開校当初の一番子供の多かった時代は158名居たというので、へき地ではあってもそれなりの規模の学校でした。
それが、現在は6年生の女子2名だけの在校、そしていよいよ4月には児童数0という事であれば、閉校も致し方ないのですが、、、、
式典に参列しながら、若かりし頃の自分と純真な子どもたち、そして当時の心象風景を思い浮かべて感無量の数時間を過ごしました。
私が最初に受け持ったのは4年生10人のクラス(男8人、女2人)で、二年後にもう一度彼らが6年生になる時再度担任したので、この小学校に在籍した3年のうちの2年間この児童たちを受け持ちました。
よほどお互いに印象深かったのか、その後もこの子たちとは連絡を取り合っていて、男子の3人の結婚式には主賓挨拶をさせてもらいましたし、のちに高校の教師になった教え子には「先生の会社で募集しているなら、とても良い教え子がいるので紹介する」と言ってくれて入社してきた『教え子の教え子たち』は今も会社で中心的な役割を担って頑張ってもらっています。
この頃の自分を振り返ると、けっこう破天荒で今では赤面ものの行いもあったと思います。
一つ例にとると、その辺りは地方なだけに(時代的にも)PTAとの地区懇談会というのが1年に1回各漁村5か所それぞれで行われて、お父さん・お母さんと教員とで海の幸を前に多少のお酒とともに懇親・懇談会をするのが恒例でした。そこで私は地区のお父さん方と意気投合して、そのままお誘いに乗って児童の家に泊まらせてもらい翌朝子どもたちと一緒に歩いて学校に行ったりしました。今では大問題でしょうし、当時も校長先生から厳重注意がありました。
でも、その漁村の子どもたちは朝は両親ともに早朝から牡蠣むきやら漁やらで不在の中、自分たちで朝食を摂って片付けし、それから同じ漁村の子どもたちといわゆる集団登校のように誰からともなく声がけし集めて、そして約50分の坂道を登って登校する。そんな実態を学校で知っている、子どもたちの生活、学校以外の実態を知っている先生がいないので個人的には優越感を持ったりもしていました。
また、当時は男子には部活動として野球部というのがあり、地区の少年野球大会という漁村の子どもたちにとっては数少ない視野が拡がる活動があったのですが、女子には何もなくてそれまで女の子たちの活動の場すら無く相談する機会もなっかようでした。
私が赴任した年に、当時6年生だった活発な女の子が、私が年齢的に近く(いつの時代でも小学生からすれば、校長先生、教頭先生、教務主任の先生方はお父さんと云うよりお爺さんに見えたことでしょうから)若い新任なら話し易かったのかも知れません。「何か女の子の活動をしたい」と直訴してきて、それでミニバスケットボールチームを作ることになりました。
当時のルールは5分の4クオーター制で10人の登録選手を全員1回は出さないといけなかったのですが、普通の小学校なら6年生の中のそれも運動神経の良い体格に優れた子を選抜して選べるので、どの子を出しても問題無いし、仮に休んだり怪我したりした子がいれば補欠選手はいくらでも補充できる状況です。
ところがこの東浜小学校は当時、女子の数は6年生2名、5年生6名、4年生2名で、4年生以上の全女子児童を入れて初めてチームとして登録出来るぎりぎりの数です。
怪我人が出ても補欠選手もいません。さすがに3年生の女子は6年生と同じコートには立てさせられません。何とか大手校とまともに試合するには、、、
とにかく考えて悩んでミニバスケットに明け暮れ熱中していた毎日でした。
また、当地区(広域石巻圏)は県下でも強豪が集まるミニバスケットの激戦区で、通常強豪校はAチーム5人、Bチーム5人と固定していて、試合の相手によってA・A・B・AとかA・B・A・Bとか5人と5人のメンバーを何ら考慮の必要なく規定の10人1回出場義務を果たしていました。
こちらは、大手強豪校と同じ戦略では到底かなわないので、10人をそれぞれ役割に合わせて4チーム作り、このクオーターは攻撃主体、このクオーターはロングシュート主体(当時は未だロングシュートでも3ポイントにはならなかったですが)、このクオーターは守備主体やボール保持主体など、クオーター毎に高度な戦略が必要でした。
この時に選手の組み合わせ、スキルの組み合わせ、戦況によって変える柔軟な人材登用など、今の会社経営の基礎を知らずに学んだのかもしれません。
出場1年目は抽選の組み合わせくじも良かったのと、その子たちが私の戦術をよく理解し自分のその時その時の役割を実践できたのと、持ち前の漁村の女の子の勝気さでルーズボールをほとんどものにし、何と初出場第3位と学校始まって以来の大ニュースとなりました。
翌2年目は5年生女子6人が6年生となり、練習試合でも勝ち続けて、父兄や地区の住民まで熱が入り、とんでもない熱気に包まれました。地区大会決勝戦の体育館には漁船に靡かせる大漁旗が数十枚持ち込まれ、地区を挙げての大声援となりました。
決勝の相手は当時県大会で優勝し全国大会に出場した女川二小で、実力的には遠く及ばなかったものの、第2クオーターまでは同点で推移し子どもたちも必死にしがみつきました。
結果は栄えある準優勝!!!今でもこの時の子どもたちがあの舞台の晴れやかさ、へき地の学校で何か鬱積した気持ちを発散しやれば出来るという自信など、今でも心に残っていると言ってくれます。
3年目は6年生2人になってしまいベスト8止まりでしたが、その後も東浜小学校のミニバスケはしばらくの間小さな強豪校として地区の伝統となりました。
そのきっかけを作ってくれた最初の6年生の女の子菅野有美子さん(敢えて名前を出させてもらいます)は、初代のキャプテンで、後輩から慕われて、東浜小学校女子ミニバスケットチームの提唱者・創設者です。いつも明るく心身ともに元気で中学校に行って部活動にも熱心に取り組んでいましたが、中学2年生の時に白血病を患い中学3年に上がる少し前に惜しまれながら短い命を終えてしまいました。
亡くなる2週間前に病院にお見舞いに行って、「しばらく学校休んだから、勉強遅れないように教科書を見ているけど、分からない所は先生教えてね」と言われたのが最期になってしまいました。
これだけの地域の盛り上がりと、それに続く無形の女子バスケットの伝統を残し、後世に影響を与えたきっかけは彼女の存在こそであり、それを知っている者としてあらためて彼女の功労を讃えたいと思います。彼女の短い生涯でもこれだけ多くのものを遺せたことを誇らしく思います。
そんな諸々の思い出が心の中に去来し、現実の閉校式とそして当時の心象映像とが重なり合って、何とも表現のできない半日を経験しました。
なぜか昔話になってしまったので最後は、やはり「石のことば」に合わせて話をまとめたいと思います。
閉校式後に行われた閉校記念モニュメントの除幕式では、白御影石の台座に黒御影石の記念碑本体。
そのおもて面には校舎と校歌と地域行事の獅子舞が彫刻され、裏面には学校の歴史を刻んで、そしてそれぞれの心を映すかのように、何千人・何万人ものかけがえのない思い出をその碑の空白部分に刻んで、永く後世に伝える石碑(いしぶみ)としてお披露目されたことを報告して今回のお話としたいと思います。
東京でも銀座に次いで土地代の高い、高級エリアの真ん中に広大な面積の墓地があります。
いわずと知れた都立青山霊園です。
ここは明治7年に岐阜県美濃郡上藩の藩主の青山氏の下屋敷跡を寄付されて公共の霊園として開設されたものです。広さは26ヘクタールといいますから東京ドーム(4.7ヘクタールだそうです)5.5個分です。
(って、よく東京ドーム何個分という言い方がありますけど、東京ドームの体感の広さがわからないので、その何個分もよく理解できないのですが、何故それを一般的に基準にするのか不思議です。東京ドームは4.7ヘクタールだそうですが、例えばそこにサッカー場を入れるとやはり5.5個入るそうです。青山霊園の広さが東京ドーム5.5個分で、その東京ドームにサッカー場が5.5面入るとしたら、5.5×5.5=30.25 サッカー場が30面作れる広さってこと!!!、この方がわかりやすそう。)
まあいずれにしても、広大な面積の緑の安息地がそこに広がっています。
春には長い桜並木が一斉に花をつけて、よくニュースで流れるお花見スポットにもなっています。
都立の霊園には池袋にも雑司ヶ谷霊園、台東区には谷中霊園などもあり、それらには著名人や歴史上の人物のお墓もあり、趣味というほどのことではないのですが、歴史と石の好きな私にとっては、たまの散歩コースに霊園を歩くという事もあります。
特に近世、近代の歴史の本人が近くに眠っていることを考えると、何かワクワクするような気持で、霊園や墓石巡りをしたくなります。(決して変な人ではないので引かないでください。実際に生きた人の歴史を知っているだけに、自分のご先祖を思い、お墓参りするような気持ちです)
青山霊園の中でひときわ大きくて広い墓域と墓石は、大久保利通のお墓です。(写真②)
この人の事を意外と詳しく知らない(名前だけは知っている程度)方が多いと思いますが、日本の明治維新後のグランドデザインは全てこの大久保利通が作り、引っ張ってきました。
おそらく明治維新初期の中心が、この大久保以外であったら、かなり日本は立ち遅れて世界的に自立するのにさらに何十年も後になっていたことでしょう。
薩摩藩出身で初めは西郷隆盛や、長州の木戸孝允などと明治維新を主導しましたが、明治になって盟友の西郷隆盛が反政府側に立ち、大久保や木戸と対立しました。
それが明治10年の西南戦争です。
結果は大久保率いる政府側が勝利し西郷隆盛は自刃しますが、翌年明治11年その大久保も暴漢に襲われて亡くなってしまいます。
そのあたりの事は司馬遼太郎の長編『飛ぶが如く』に詳しく書かれていますが、その長い物語(文庫本で10巻)の最後の項は、その大久保利通が襲われて亡くなる経過を描いた「紀尾井坂」という章をもって終わっています。
現地青山霊園の大久保のお墓にもその最後の事や、一緒に居て難に合った馭者の中村太郎のお墓やその時に巻き添えで死んだ馬のお墓もあります。
まさに、『飛ぶが如く』の歴史小説そのままの情景が見られます。
また、少し離れたところでは御木本幸吉のお墓もありました。(写真③)
日本の銘品ミキモト真珠の創業者です。
この方には、名言・格言がたくさんあっていずれもとても有名です。
「誰もやったことがない仕事こそやり甲斐がある」
「人間には知恵が大切だが、物事の成功にはどうしても運が必要だ」
などは私も大いに共感しています。
少し風変わりなところでは
「世界中の女性の首を真珠で絞めて御覧に入れます」
というユーモラス?自信過剰?な名言もあります。
御木本家の墓域は、奥がシンプルにご先祖供養の五輪塔、隣に和形墓石、そして手前が何ともシンプルな洋型墓石という、石屋にはとても参考になるお墓です。
こうやって時々、霊園巡りも楽しくなってくるのですが、自分でこの青山霊園を求めようとするならば(もちろん、仮のお話ですよ)もともと予備の墓域がないので、返還された墓地の再募集がある場合ですが、、、何と一番小さな1区画(1.6平方メートル)で約500万円、少し広い区画(3.1平方メートル)だと1,000万円の墓地代です。もちろん墓石代は含まないのでこれに加算されます。
そして、その応募倍率ですが、最も低い倍率でも10倍から20倍の何とも狭き門(狭き確率)です。
やはり高額でも、高倍率でも、都心の一等地で歴史上の人物と一緒に死後を過ごせる青山霊園の人気は決して衰えないのでしょうね。
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