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ポルトで出会った驚きの書店の話をします。
最近自分でも自身の経営と半生記を著した書籍を上梓したことから、一般の書店の現状に関心を持つようになったのですが、今の時代は多くがネットでの書籍購入が増えて、大手で立地の良い書店を除けば一般書店は経営が難しく存続の危機にあるように感じます。
自分の本の売れ行きについては、出版社経由で定期的に報告が来るようになっています。
具体的な数字は言えないのですが、全国にある一般書店の約半数が加盟するPOSデータの共有方式により全書店の販売数とともに、インターネット経由の書籍の販売数が公開されます。
驚くことに日本全国の書店の販売総数とネット経由の書籍販売は、同数あるいは場合によってはネット経由の方が多いこともあり、いかに一般書店が大変かの一端を垣間見れます。
時代的に活字離れが騒がれて本の売り上げが激減している中で、更にネットでその半分近くをそちら経由になってしまえば、どんな老舗の本屋でも、たとえ全国展開の書店でも経営が厳しくなるのは異論を待たない状況と思います。
そんな本屋事情の中でのびっくり体験です。
ポルトにあるレロ書店がそうで「世界一美しい本屋」と呼ばれています。
私が行ったのは雨の平日、それも雨の少ないポルトガルにしては大雨模様の午前中でしたが、なんと入場するのに2時間待ちの行列が、、、、
それだけじゃないんです。
本屋に入るのに入場券が必要なのです。
予約もできますが、チケットに時間が書かれていて、11:00からの列、11:30からの列、12:00からの列、12:30からの列ともう4列も出来上がっていました。
入場料も5ユーロ(800円)って一冊本が買えるほどの金額です。
中に入れば凄まじい人だかりでゆっくり本を選ぶなんて感じでは全くありません。
人気の理由は書店の真ん中にある二階に向かう階段が天国への階段と言われる木製で且つアンチークの螺旋階段が、ハリーポッターの映画の中に出てくるような見事な造形と雰囲気を醸しているからです。
ハリーポッターってイギリスなのに何故って思っていると、その作者のJ・K・ローリングが一時期ポルトに住んで英語教師をしていた時に、この書店を訪れてその構想を練ったと言われているせいもあるようです。
それもあってか、店内にはハリーポッターの本が英語版、フランス語版、スペイン語版、ポルトガル語版、、、と豊富に在庫されてここで買ったというプレミア感も狙っているのかもしれません。
でも日本語版は展示が無かったので残念でした。
尚、店内で書籍を購入すると、先程の入場料5ユーロはチケット交換でその分値引きされますので、本屋としてもとにかく本を買ってもらいたいだけで、決して入場料で不労所得を得ようとしているわけではないようです。
その人気の元になった天国への階段と言われる螺旋階段ですが、実は当社でも大理石で何件か制作したことがありました。
ここの様に木材で作るのも凄く難しいですが、それを硬く加工の難しい大理石で作るのは難易度最高マックスの制作です。
1・円形(又は楕円形)であること。
2・それが上に傾斜していくこと。
3・そして捻りが加わる事。
この3つをいわゆる3次元で加工するのは、超難関中の難関。
この制作が出来るのは大手石材工場でもほとんど無い中、そして今のように3DCADや立体設計図面が無かった時代、上からの投影図と横からの投影図を組み合わせて何とか作って納めたことを思い出します。
その時も、ヨーロッパの旧い建物には大理石の螺旋階段があり、昔の職人に出来たのだから、我々にもできると工場を鼓舞して一体となって作り上げたものでした。
そのような、建築と芸術の中間のような技術があって、この世界一美しい本屋の人気も高まっているものと思います。
ポルトガルの第一の都市はリスボン、第2の都市はポートワインで有名なポルトになります。
こちらポルトで有名なのを石屋の視点から言うと、大理石や石灰岩の南部エリア(リスボン等)に対しての、花崗岩の北部エリアを代表する都市ということです。
その意味からすれば街並みもリスボンは石灰岩によるベージュ系カラーの街並み、ポルトは花崗岩によるグレー系カラーの色合いの街となっています。
そしてもちろん誰にとっても有名なのは、ワインの産地であることです。
ワインの原料であるブドウの育成に大きな影響を及ぼすのが、テロワールと言われる土壌の違いです。
石灰岩質や砂利質の土壌がブドウの成長に、環境上の厳しさやストレスを与えますが、不思議なことにそれが美味しく複雑な魅力を持つワインにつながります。
その意味でも港町ポルトから遡るドウロ川の上流両岸はまさにブドウの大産地であり、それがポートワインにつながっていきました。
今回はそのポートワインを寝かせて醸造するワイナリーを見学してきました。
ポートワインの特徴は樽熟成の途中でブランディーを加える酒精強化ワインと言われる種類であることです。
同じ酒精強化ワインの仲間にはスペインのシェリー酒も同類となります。
吞み口が濃厚で甘くコクのある味となり、アルコール度数もブランディーのおかげで20度位になります。(通常のワインは日本酒と同等で13度~15度程度です)
おそらく、フランスやイタリアと比べて気温が高く、生のワインが傷みやすかったので、ポート酒やシェリー酒が生まれたものでしょう。
ポルトの二大醸造所の一つ、有名なサンデマンのワイナリーに予約をして見学してきました。
このシルエットはワインのラベルにも出ていますが、ワイナリーの初代ドン・サンデマンの姿で、大学のマントと帽子を象徴しています。
ワイナリーの中は窓の無い石造りの壮大な空間になっており、静寂な中で通常は5年程度、長いものは50年、100年と熟成の変化を遂げています。
われわれ人間も、特に石屋人間は、毎日石の中に居るのですから、ポートワインの様に熟成されて、まろやかでコクのある人間に変わっていけないものかと自省してしまいます。
ここサンデマンのワイナリーで改めてポートワインの種類を学びましたが、簡単に言うと白ブドウから作られる「ホワイトポート」と黒ブドウから作られる(レッドポート)の2種あるが、その(レッドポート)の中で更に比較的短期間の「ルビーポート」と長期熟成で色も濃い「トゥニーポート」とあり、大きくはその3種を試飲させてもらえます。
それぞれに良さもあり好みも分かれるところですが、そのバラエティさも永く人々に愛される秘訣ではないかと思います。
われわれが提供する石材や墓石に関しても単一でデザインも同じ、差別化の無い商材だけでは飽きられてしまい永く続かないのかもしれません。
基本に沿った伝統を守りつつも、いろんな好みに合わせてバラエティさも用意することで永く愛されるブランド・企業になっていくのかもしれません。
イタリア、スペインに次ぐ石材の産地、ポルトガルでの石との遭遇その2になります。
最初の写真はさすが海洋国家、世界につながる大西洋からリスボン市内に続くテージョ川の河口にある、当時の検問関所の役割を持つベレンの塔です。
常に水に浸かっている為に、大理石などの水に弱い石では融解してしまうので、その用途には通常は花崗岩(みかげ石)が一般的なのですがこれはちょっと違うような?
硬い花崗岩は半面細工が難しく、円柱や飾りの石の精密な加工は近代にならないと出来ないはず。
雰囲気は凝灰岩? いやそれも耐水性はかなり弱いはず。
もっと近づいて城壁やお城の外構をよくよく見ると岩石の中に小さな粒があって、ひょっとすると礫岩?或いは砂岩や泥岩?
残念ながらそのお城の石を調べる機会が無かったのではっきりとは言えませんが、おそらく花崗岩でなく堆積岩(礫岩・砂岩・泥岩など)で作られたのではないかと思います。
そして細かな彫刻や細工物はポルトガルで一般的な石灰岩を併用したものかと思います。
そういえば、ポルトガルには日本でほとんど採れなくなった玄昌石(黒い硯の石のもとになる堆積岩、当社では創業の時に岩手県の玄昌石を主アイテムとして事業をしていた時もありました)もあり、われわれ石材業者は国産の玄昌石に対して、ポルトガル玄昌石と称して一時かなりの量の輸入をしていました。
やはりポルトガルはヨーロッパ屈指の石材産出国であり、その種類も大理石に終わらず、花崗岩、石灰岩、玄昌石、凝灰岩、砂岩などあらゆる種類の産地であることが連想されます。
次の写真は、世界遺産になったジェロニモス修道院の大伽藍。
こちらは遠くから見ても間違いなくライムストーン(石灰岩)です。
ベージュの単一の模様で、採掘も簡単で、加工もしやすくこの世界遺産にもなった大伽藍の建築にはうってつけだったと思います。
何とも壮大なパリのルーブル宮殿にも負けない巨大な建築物は、やはり産出量と加工の簡易さからこの石が選ばれたのでしょう。
そして最後は石屋の目から見れば、ポルトガルの石材=何と言ってもピンクの大理石=ローズオーロラという図式(連想ゲーム)が浮かんでくるほどに著名な石を街中でなぜか探している自分に気づきました。
そして、それが突然目の前に現れた時の衝撃は現地での最大のものでした。
模様や色合いの難しい高級な大理石の為、日本での使用はカウンターやテーブルなどの単体、又は少々多く使われてもトイレやバスルームの小部屋の壁や床程度しか使用してない中で、ビルの外壁全面(実はこの並びで5~6棟のビルがすべて同じ仕様でした)にこのローズオーロラが使われ、しかもそのピンク色もちょうど良い綺麗な柄で目の前に現れた時に、大理石屋の我々だけでなくともその圧倒するインパクトに誰もが驚くことと思いました。
更にはそのローズオーロラの赤色の濃手と薄手を見事に使い分けて、ビルの壁を見事にデザインしています。
やはり本物の石の産地での本物の石の使い方で本物の石の存在感は半端なくすごいものだと感心しきりでした。
前々回のコラムにも書きましたが、我々石材業者にとってポルトガルは産地としては種類も多く魅力的な石がたくさん採れる魅惑の国です。
しかもエリアによって石種(岩石の種類)が全く異なり、その石の産地の近さで街の風景まで変わってきます。
ポルトガルの首都リスボン周辺は、比較的柔らかい石灰岩(ライムストーン)が多く採れるので、建物の外観や街並みがあまり模様の無いベージュ系の風景となります。
また、歩道や車道には10センチメートル立方のピンコロと言われる石材を埋め込んでいくのは、ポルトガルだけでなく広くヨーロッパでは共通しているものです。
ただそれ(ピンコロ)に関しては、比較的柔らかい石灰岩や大理石では摩耗に弱く、古来馬車などが通るようなところは擦り減って轍がすぐに出来るのでもっと固い安山岩・玄武岩・花崗岩などが使われます。
リスボンの歩道も安山岩と花崗岩が多く、その色合いは黒やグレー系となります。
そういうことで、リスボンの街の風合自体が平面(地面)がグレーから黒、立面(壁面)が模様の無いベージュ一辺倒になっているようです。
ただ、昔の人たちもその単色の街並みに飽き飽きしたのか、或いはポルトガルがアラビアの影響を受けた時に広まった焼き物(陶磁器)の技術を使いこなせるようになって、他との差別化を図るためにアズレージョを外壁に使っている建物もところどころにあります。
基本的には宮殿や教会等の装飾用として、外部にも内装にも使われていますが、写真のように一般のビルや住宅の内外装でも見かけます。
特に駅舎や大規模なビルの外壁にはアズレージョの輝く色彩が目を引きます。
壁がライムストーン、モカクリームといった淡いベージュの単一色の中に、アズレージョ特有の濃いブルーはひときわ目立って街の景観にポイントを与えています。
最後の写真は、同じくベージュ色の外壁の石ですが、実はこれはとても懐かしい(日本にもっともよく入っていた)リオーズモンテモールという大理石です。
この大理石名称を知っているのは石材業界でもかなり年季の入った方々のみと思う程、遠い昔に日本に輸入されていて、30年ほど前には全く入って来なくなった石です。
長い年月の間に磨きが剥げて、地の色のベージュ色しか見えていないですが、実は研磨したての状態では綺麗な縦の流れと丸い貝殻のような模様が入った、ポルトガルを代表する大理石です。
なんか、何十年ぶりかで偶然街中ですれ違った、昔の友人のような大理石との遭遇でした。
さて、前回の続きでポルトガルの墓地見学の事です。
ここは、リスボン市の高台で市内と郊外の中間地点、近年住宅も多く立ち並ぶエリアにあるプラゼーレス墓地です。
なんでも現地ポルトガル語でプラゼーレスとは「楽しみ、喜び、満足、快楽」といった意味だそうです。
何と!!日本語に直したら喜悦墓地?極楽墓地?
まあ、やすらぎ墓地とか平安墓地とかいう名称の墓地がたくさんあるので、ある意味では同じ感覚なのでしょうか?
さて、ここで二つ目の質問です。
ポルトガルと言って思いつく有名人を考えてください。
前回版で書いたサッカー選手ロナウドは純粋なポルトガル人です。
それ以外には?
ポルトガル人?
なかなか思い浮かびませんよね。
大航海時代になりますが、日本で有名なのはバスコダガマでしょうか?
喜望峰の発見として世界史の教科書に出てきます。
あとは少しマイナーになるかもしれませんが、エンリケ航海王子。
ポルトガルの大航海時代の基礎を作った親王です。
でももっと有名な、誰でも知っている日本史の教科書に出てくる人がいます。
イエズス会のフランシスコザビエルがそうです。
(実態はポルトガル王ジョアン3世の任命で、ポルトガルの船で、ポルトガルからインドのゴア経由後日本に行ったことから、日本ではポルトガル人とされていますが、もともとの出身はスペイン北部エリアで、国籍的にはバスク人というのが正しいそうです。)
イエズス会と言えば、同じキリスト教の中でも革新的なプロテスタントの勃興に対して、伝統的なカトリックの団結と新天地の拡張を目指して作られ、世界各地への宣教を主とする活動を行っていました。
その流れで、日本に於いて初めてキリスト教を伝えたのがフランシスコザビエルです。
残念ながらこの墓地にザビエルのお墓は無いですが、(ザビエルは次に中国にも布教しようとして目指した中国の広東省で亡くなっています)ここポルトガルは生粋のカトリック。
スペインもそうでしたが、キリスト教の特にカトリックの信者は火葬を好まず、復活する日を待って土葬するのが一般的です。
それを思い出しました。
あの家型のお墓の中はひょっとしたら、、、、
そして覗いてみたらなんと屋内には棺桶がそのまま。
びっくり仰天です。
後で聞くと、ポルトガルにおいては亡くなった場合、そのまま密封して棺桶をその家型の墓地に入れる場合と、近くの共同墓地に一旦棺桶で埋葬して5年ほど後に掘り返して再度棺桶にお骨を入れ直す(スペインではそれが普通と聞いた覚えがあります)場合があるとのこと。
私が見た棺桶がどちらかはわかりませんが、いずれにしても地下埋葬でなく地上の家型の中にお棺があるのには多少衝撃がありました。
次の写真は、このプラゼーレス墓地1番の傑作且つ綺麗なお墓です。
白大理石で家と玄関、テラスを模しておりそのまま住めそうなお墓です。
この墓地に祀られていたのは若い女性だったのでしょうか、写真と共にブーケや花がたくさん供えられていました。
遺族の死者を悼む気持ちが何とも伝わってきてしばらくその場に立ち止まっていました。
最後の写真は最近増えてきている壁墓地です。
こちらは、埋葬後5年を経てお骨だけを拾い直して、こちらの壁の中の空間に収めるものです。
世界中で伝統的な葬送も残りつつ、葬送を簡易的にしようとする傾向も共通なのかもしれません。
こちらの霊園は見学で回るだけでも1時間以上かかります。
まあニューヨークで行った車で回わる墓地にはかないませんが、市街地の喧騒の中、死者がゆっくり眠る為にはある程度の広さと静寂さは必要なのですね。
突然ですが質問です。
ポルトガルって、日本人にはどんなイメージがあるのでしょうか?
ヨーロッパにあるけど場所がよくわからないとか、場所はわからないけど一部はスペインに隣接している、サッカーのロナウドってポルトガル人だったかブラジル人だったか?のような反応が大概なのではないでしょうか?
実は大理石の輸入はかつては1番がイタリアで2番目がスペイン、その次に多いのはポルトガルでした。そして墓石に使う御影石は何とそのイタリアを抑えてポルトガルの花崗岩が日本によく入ってきていてブランド化していました。
その大きな理由は為替の関係で昔からフランスの元通貨フランやドイツのマルクなどは日本円に対して強く、イタリアの元通貨リラやスペインのペセタ、ポルトガルのエスクードなどが弱含みで貿易上のうまみがあったこと、もちろんイタリアとスペインは大理石の種類が豊富なこと、ポルトガルの御影石は日本の銘石にに似ていて目が細かく硬くて艶持ちが良かったせいもあります。
ただ実際にポルトガルでは地域によって産出される石材の種類が違って、リスボンを中心とした中央部は石灰岩(ライムストーン)がメインで日本でもよく使われており、モカクリームとかブランドマールと言われて輸入されています。
ポルトガルの北部ワインで有名なポルト地区辺りからは、グレー系や薄いピンク系の花崗岩がたくさん採れ、街並みも花崗岩造りのがっちりとした建物が並んでいます。
そして内陸のスペイン寄り東部地区からは30年前までは日本で大人気だったピンクの大理石ローズオーロラやリオーズチャイネットなどいわゆる大理石そのものも採れます。
そんなこんなで、私もヨーロッパでは訪問した回数順では一番がイタリア、次がスペイン、そして3番目がポルトガルという事で、ある程度ポルトガルの事は知っているつもりです。
でも、今回久々の訪問では初めてポルトガルの墓地に足を踏み入れました。
リスボンで一番人気のある路面電車(トラム)の28番ルートは街中やら丘の上そして海沿い迄網羅し観光客には最も利用しやすくリスボン観光を満喫できる路線となっており、なかなか途中での乗り降りは地元民でないと難しいですが、その終着駅ターミナルまで行けば、そこに目指すリスボン最大の墓地がありました。
中に入ってみると何と住宅地???の様に建物が並んでいます。
ほとんどが家のような一軒家の並びに見えるお墓です。
もちろん、他のヨーロッパで見られるモニュメント石塔が建っていてその下に土葬している墓域もありましたが、そちらはほんのわずか。
ほとんどが家型墓石でその数も半端なく圧倒される思いです。
なんか今まで訪れたイタリアやフランス、スペインの墓地とは違う雰囲気に戸惑いながら広大な墓地の探検となりました。
(その2に続く)
コロナ禍の数年というのは本当にそれまでの日常や普段どおりというのを制限し失くしてきていましたね。
私の中でも仕事こそマスクを付けながらやモバイルのTV会議を活用したりである程度は普通に通過してきましたが、旅行や登山(トレッキング)は本当に行けていなかったと思います。
もちろんすべての日本人が、いや全人類が普段以外の活動を抑えてきていました。
私も海外出張と県外登山はしばらく自粛していましたが、海外は中国の子会社訪問で解禁、トレッキングも4年振りに長野の北アルプスに挑戦することにしました。
日本には標高3,000メートル以上の山が23座あると言われています。(21とか27とか数え方での相違があるようですが)
そのうち有名なのは当然ながら1位の富士山3,776m、その後はほとんどが北、南アルプスの山々です。2位が南アルプスの北岳で3,193m、3位が北アルプスの奥穂高岳3,190m、その他槍ヶ岳や御嶽山など著名で登頂困難な山が並びます。
私のような初心者でも、3,000m級の山は憧れです。
実はその23座の3,000m超の山のうち2座だけ登った経験があります。
どちらも初心者向け、体力が無い人でも登れるという案内だったので、過去に登ってきました。
一つは富山県の立山で主峰が雄山3,003mで、もう一つが乗鞍岳3,025mでした。
ともに途中の登山口までケーブルカーやバスを利用し既に高度的には2,500mとか2,700mまで行けるので自力で登るのはあと少しという形です。
(3,000m級を登ったと言って自慢してきたのですが、内実をばらしてしまいました。)
特に乗鞍岳は標高2,700m迄バスが通っていて(逆に自家用車は自然保護の為に通行できないのでバスで行くしか方法が無い。)日本一標高の高いバス停の畳平(2,702m)から頂上を目指すことになります。
9年前の2014年8月にここは初3,000mの登山で、それほどきつく感じることなく割と簡単に登れた記憶があったので、4年ぶりの復活登山にこの乗鞍を選びました。
さて、いよいよ今回の復活登山。乗鞍スカイラインをバス車窓から眺め絶好の登山日和の中、畳平を出発、前回の気分で三分の1ほど登ったところで、前回とは全然違うきつい山、足が前に進まず息が苦しくこれは完登は無理かというくらいのペースでびっくり仰天、まるで以前とは全く違う山を登っているような感じでした。
コースタイム1時間半の倍近くかかったものの何とか頂上に到着、帰りもかなりきつい思いで降りてきました。
全く油断していましたが、軽いと思って登ったのは過去の話、何とそれから9年が経っていれば当然に体力も落ちてきており、更にはここ4年間というもの近場の軽い山は登っていても、本格的な登山の経験値が無くなっていたことで、同じ山でも全く違うきつさを体に受け止めざるを得なかったものと思いました。
やっぱり3,000mの山は大変だと思い返した次第でした。
今回その流れでこちらは3,000mは無い2,932mが主峰の白馬岳や有名な唐松岳の登山途中道(こちらは初心者は絶対無理ですし、途中で山小屋に泊まらないと行けない上級者コース)の八方池、八方尾根までは、ゴンドラと2つのリフト計3つの乗り物で標高を稼いで標高2,000mほどの八方池を見てきました。
乗鞍岳の登山道もそうでしたが、ここ八方尾根や白馬岳のエリアは蛇紋岩と言われる緑の石が多く、岩石が多い砂利道も濃緑色から淡緑色の蛇紋岩特有の色で、花崗岩の多い他の山の白色からグレー色の砂利道とは違っていました。
蛇紋岩は専門的に言うと花崗岩の仲間ではなく橄欖岩(かんらんがん)などが変性して出来たものでマグネシウムや鉄分を多く含み色合いが濃い緑系として出てきます。
近くにあった石材で作ったと思われる八方ケルンも、使われた石は濃緑色や薄緑色でこれらは蛇紋岩が多く使用されているように思います。
話は戻り、乗鞍岳からほうほうの態で下山し、前回(9年前)は早々に松本市内に到着して昼の松本城を見学できたのですが、今回は登山の体力不足で到着が遅くなり夜となりましたが、堀に映ったライトアップの夜景の松本城を見れて、これはこれで得した気分で復活の3,000m登山を終えました。
前回は3年振りの中国出張のバタバタ顛末を書きました。
今回はその半年後の9月の中国訪問の事です。
またまた、ビザ取得から始まります。(実は中国ビザの種類にはシングル(1回限り)ダブル(2回有効)マルチ(複数回可能)の3種類の訪問ビザがありますが、回数が増えるほど取得の為のお金と手間がかかります。
今回は前回の代理店を変えて、ビザ取得に対して顧客側に立って相談に乗ってくれる業者と担当者を紹介受けそちらに依頼しました。
どうせ行く予定があるのなら、マルチを取っておいた方がいいのではないか、又前回の中国ビザセンター窓口での写真と指紋のデータが残っていれば、本人が並ぶ必要が無いとのアドバイスを受けて新しい代理店に一切を任せました。
申請書記載の為に多少のやり取りはあったものの、前回の申請と比べると半分も4分の1も手間がかからずマルチのビザが添付されたパスポートを取得できました。
次に、飛行機の方もANA,JALなど日本籍の航空会社の直行便は未だでしたが、中国籍の厦門航空が関西空港ー厦門空港の直行便があり、そちらを予約しました。
(ただし、東京から行くとなると羽田ー関西空港、関西空港ー厦門と乗換えがあるので東京直行でない分は未だ不便さを感じますが、、、)
更には、例の実際には提示義務の無かったPCR陰性証明書も、中国政府にて正式な方針が発表され渡航予定前日からは全ての外国人に対して完全に不要になりました。
それらも含め、カウンターにて前回とは大きく違い何らの不安も無くチケット発券してもらい、前回の半分ほどの手間で出国、中国入国を果たせました。
ただ、実は2回目の訪中の方がいろいろ問題があったのは皮肉なもので、何事にも完璧という状態は無いものだと思いました。
その理由は台風の直撃コースに台湾とその真向いの厦門が入っていたからです。
日本では台風9号、11号と呼ばれるアベック台風でしたが、9号はちょうど厦門に行く頃に直撃コース、11号が帰る頃に直撃という進路予想だったからです。
出発の当日朝まで台風進路予想を毎時発表毎に見て、最終的には出発の3時間前に9号が厦門からかなり南に逸れそうだとの進路予想に変わり、また帰国の頃に当たりそうな11号は大きく北への進路予想で、上海の方に抜けそうだとの情報を得て渡航を決断しました。
(結局、9号はその後も南に進路を変更し、かなり南の香港を直撃し甚大な被害が現地のテレビで放映されていました。)
訪問中はいろいろと難しい判断や打ち合わせもありましたが、最終的には天候が崩れることなく何とか当初の予定をすべて完了させる事が出来ました。
さていよいよ帰りの飛行機と台風11号の関係です。
はじめは厦門よりかなり北の上海辺りへの上陸予想で、帰りはある程度安心もしていたのですが、1日ごとにコースが南に変更され、ちょうど帰る日の前後に厦門を直撃する進路予想に変わってしまいました。
完全に帰る日程と台風直撃が重なるようなら、1日前又は半日前でも経由を変更して予定通り戻れるような別便の航路も検討してはいましたが、実際の動きでは台湾上空でスピードが遅くなり何と紙一重の差で出発翌日に厦門に上陸し直撃となりましたが、私の出発時には風も雨も影響なく予定通り関西空港に向けて飛び立ちました。
私が飛び立った後の現地では、その台風11号が翌日から雨台風となり、前日まで滞在した福建省中部地区は多くの建物が床上浸水、厦門市内の当社厦門事務所前の道路も冠水し通行止め、飛行機便にも大幅な遅延や運休が出てしまいました。
全く間一髪の中国訪問第2回目でした。
当社の中国事務所社員からは『幸運・強運の持ち主』と言われたものの、社員の実家での浸水被害や強風被害の報を聞くと素直に喜べない思いでした。
ここで話題を変えて、
今回は、台風が来る前の最終日に、久しぶりに中国に来始めた頃から大好きな食材、西北拉麺(シーペーラーメン)を食べたくなってお店に行ってきました。
中国の少数民族であるウイグル族(回教徒)の人たちが福建省やアモイ市内でチェーン店展開している庶民的なラーメン屋さんです。
今から20数年前、中国の事務所に来ると3日に1回くらいはこのラーメンを食べていました。安いというのもありますが(当時は1皿5元、当時のレートで80円位)味が日本人の舌に合っていたからだと思います。
一時は厦門エリアにチェーン店が100件を超えるほどに増えましたが、店ごとに微妙に味付けが違っており、私が通い詰めたお店はなくなっていましたが同じ看板の店があり、その昔の味を偲んできました。
メニュー看板にはいろんな料理も映っていますが、私は昔食べた一番ポピュラーな廉価ラーメンを注文しました。(今は前と同じもので1皿15元、現在のレート換算では300円強)
多少味は変わったように感じましたが、懐かしく、美味しくいただきました。
・・・・・
今回これで締めたら石のことばに関係なくなりますよね。
・・・・・
実は、この厦門でしか食べれない幻のラーメン西北拉麺が日本に1件だけあるんです。
シーペイラーメン水天宮とググると出ると思います。
こちらのお店のオーナーは我々と同じく石材会社の方で、厦門で石の仕事をしている間、毎日現地の西北拉麺を食べ歩き、ついに日本支店の出店を認めてもらい(門外不出だった為、許可を受けるまで6年かかったそうです)水天宮に出店したという事です。
こちらの石材の会社とは直接のやり取りが無いのですが、同じ頃に同じ地域で同じ仕事をしながら、同じ食べ物に感激していた事実から、何か近しい思いを持ってしまいます。
まだこちらの店でシーペイラーメンを頂いたことが無いのですが、ラーメンのこと、石材のこと、厦門地域のことをカウンター越しに店主と話せる日が来るといいなと思っています。
もう、少しずつ忘れかけてしまっていますが、2020年の初めからコロナが蔓延して各国が移動の自粛や国境を閉ざしてしまい、ほとんど海外に行くという事が出来ていませんでした。
私も2020年の1月にシンガポールから戻ってから今年2023年迄の3年間は全くパスポートを使うという事がありませんでした。
グループ会社が中国福建省にあり、仕事上の打ち合わせやその他の用事もあって何とか渡航可能になった今年の3月に、そして半年後の9月に今年2度目の中国出張に行ってきました。
今年1回目となった3月の渡航は本当に大変で、空港も税関も全てにおいて規制規制、また新システム導入の不慣れによる混乱とで以前とは比較できないほどの大変さでした。
先ずは、出発前の中国入国ビザ取得から始まります。
以前は日本人にはビザ取得無しで中国入国は認められていましたが、コロナ後の現在は中国に入るにはアメリカ人も韓国人もユーロ圏も日本人同様ビザが無いと行けません。
その取得も1回目はお台場有明の中国ビザ申請センターで本人が出向かないと申請できず、その日程予約に数日かかりましたが、更にその前のビザ申請用紙への記入が何と十数枚にものぼる膨大なデータの記入と独特なサイズの顔写真データ添付など、その申請用紙作成だけでも中途半端な訪中意欲なら砕け散ってしまいそうなほどの作業量でした。
その申請書を準備してから、登録している申請代理会社(中国系の会社)を通して、現地窓口日程を確保して朝8時前から並びましたが、それでも待つこと2時間以上かかり、窓口の作業(顔写真撮影と指紋データ撮影)を終える頃には3時間近くかかっていました。
それから1週間ほどでビザの張り付いたパスポートが戻ってきて、漸く出国準備が叶い飛行機の手続きを確定させました。
以前は全日空便で成田ー厦門(アモイ、福建省)の直行便がほぼ毎日あり、3泊程度なら国内旅行と変わらず気軽に行けたのですが、コロナで全く需要がなくなりその便の復活は未だでした。
経由便を乗り継ぐしかなく選んだのは、羽田ー上海、上海ー厦門というルートでした。
事前に中国側からも石材関係者が訪日しており、以前に比べるといろいろな規制は少なくなったという報告も聞いてて、ある程度以前並みの手続きで上海、厦門と行けるものと思っていましたが、羽田のJALのカウンターでとんでもない事を言われてしまいました。
飛行機のチケット、パスポート、有効なビザ、乗継のチケット、ホテルの予約表、日本で受けたワクチン接種の証明データ等、旅行会社と打合せした準備は完全だったはずなのにJALとしては発券出来ないという対応。
何と!3月下旬から緩和されたという24時間以内のPCR陰性証明書の添付が無いという事での拒否でした。
実際にはもうほとんどその証明書提示は必須でなく、それよりも中国語の携帯We-chatから入力する健康調査票の完了後に出るバーコード提示で可能だとの報道もありそれを信じて陰性証明書の準備はしていませんでした。
カンターの職員に聞くと羽田空港内にも臨時の検査所があって、予約無しでも検査してもらえるとの言でしたが、何とその開始時間は飛行機の出発時間と同じ、又検査後書面としてもらえるのはさらにその2時間後という事で、この飛行機には今から検査を受けても乗れません!とはっきりと断れてしまいました。
3泊4日とはいえ、その前後の国内の予定の調整や仕事の変更など、一旦出直して再予約とい選択肢も考えましたがそこはあきらめの悪いたちなので、何とか今日中に行く方法はないか、本当にJALの窓口で言っていることは正しいのか各所に連絡をしながら対策を練りました。
24時間以内のPCR検査証というのは実際には提示する必要や機会はなくなっているが、中国外務省のホームページにはまだ残っているので持っていないと発券した飛行機会社の責任になるというのが、その拒絶の理由のようでした。
一応、羽田空港1階のPCR検査場の開場に合わせて検査を行い、なるべく早くでの陰性証明書現物書類を受け取りながら、別な当日ルートを探し続けました。
台湾籍の中華航空便で羽田ー台北、台北ー厦門が何とか当日中に行けそうなのでそちらのチケットに変更し、出直しして中華航空のカウンターに手続きに行きました。
そこでは、各種の書類の提示を求められたものの、せっかく取った陰性証明書には何ら触れられることなく、そのまま発券され搭乗、台湾到着後の台湾-厦門便では、先程の中国版健康調査票のデータ入力を義務付けられたものの陰性証明書の提示はなく中国の入管までたどり着きました。
結果は陰性証明書所持云々は全く関係なく、そのWe‐chat(日本版LINEのようなもの)から入力する電子データを提示することで容易に入国可能でした。
中国の表面上と運用の公然とした使い分け、そして日本の原則重視の融通の難しさ、何となく国柄が反映されたように思いました。
その3月の訪中では、20年以上の取引のあった中国石材会社の社長が亡くなってからの5回忌訪問、又その子息たちの会社承継存続の打合せなども出来、陰性証明書の要不要問題はあったものの出張を強行してよかったと思っています。
亡くなった社長と私とは中国で言われる老朋友(親友)といえる仲で、石材の仕事のことから家族のこと(息子さんが二人居て家業を手伝っていた)や長男の結婚式に招待されたりしていました。
過去年に数回の中国出張でも、ほぼ毎回彼に会って食事も共にしましたが、体調を崩して入院したとの報告を受けてから、訃報を聞くまでの短い期間に再度会うことはかないませんでした。
その後家族会議をして、彼の奥さんが社長、息子二人が協力して石材会社を継続するという報告を受けていたのである意味安心していた部分もありました。
ただその後コロナによる世界的な貿易の低迷や、不景気を乗越えるにはやはり力不足だったのか、事業を縮小または閉じたいという相談がありました。
石材関連だけでなく、日本だけでなく、あらゆる業種・全ての国に於いても事業承継や事業の継続はすごく難しいものだと改めて感じ入りました。
結果としては以前から長男が兼務していた自動車販売関連、次男は旧工場の賃貸事業などに事業転換し、長く続いた石材会社は畳んでしまいました。
材料としての石は残っても、父親の意思を引継いだ会社は閉鎖されてしまいました。
私にも寂しさと大きな心の穴が出来てしまいましたが、彼ら家族のためと将来の為には、私の老朋友も閉めた事を認めてくれるのだろうと思い直して第1回目は帰途につきました。
「狼煙」という漢字の読み方はご存知だと思います。
「のろし」は今は環境的にも使われなくなりましたが、モノを焼いて煙や炎を上げてそれを離れたところから確認することで、危険や情報の伝達に使っていました。
なぜその「のろし」にオオカミの漢字が使われるか、調べてみると面白いことがわかりました。
中国の万里の長城は秦の始皇帝からその建造が始まりましたが、北方の騎馬民族の襲来を防ぐ目的だったことは有名です。
その万里の長城にはある一定の距離ごとに狼煙台として使われた遺構が残っており、つまり万里の長城のどこかで騎馬民族の襲来を受けると、そこから順々に狼煙を上げて危険を知らせたと考えられます。
その狼煙に使われたのが「狼糞煙直上、烽火用之」(オオカミのフンの煙を直上させて、烽火に之を用いた)と記載があるそうです。
「のろし」には他の漢字で「烽火」「狼火」「狼燧」などを当てることもありますが、上記の文章から「狼煙」が一般的になったものかと思います。
今回はその狼煙の一般名詞ではなく、地名としての「狼煙」についてです。
その場所は能登半島の先端、いわゆる奥能登の石川県珠洲市狼煙町です。
なかなか距離もあり簡単に行ける場所でもないのですが、少し足を延ばしてその先端をぐるっと回ってみました。
そこで見えたのが「道の駅 狼煙」
何ともインパクトのある名称でしょうか?
そこは普通に半島を回る周遊道路に面した施設で特に変わったところはなく、名物の豆腐やおからドーナッツ、豆乳ソフトクリームなど美味しいものが並んでいました。
なぜ「狼煙」という疑問はすぐに解決、近くに灯台があり狼煙の灯台という通称や地区名自体が狼煙だからです。
早速その道の駅から徒歩10分程の岬の先端、能登半島の最西端にある正式名称「禄剛崎灯台(ろっこうさきとうだい)」がありました。
古くは日本海を航行する北前船に能登半島の先端がここにあるという目印として狼煙を上げていたことからの命名だろうと思います。
今はGPSやレーダーが発達して沖を行く船にとって狼煙や灯台は必要なくなり、この禄剛崎灯台は無人となり使われることはなくなったそうですが、「日本の灯台50選」や「恋する灯台」にもえらばれ、海から昇る朝日と海へと沈む夕陽が同じ場所から見えると観光のスポットになっているようです。
個人的には最近改めて読み直した司馬遼太郎の「菜の花の沖」(江戸時代の北前船の船長である高田屋嘉平が、ロシアとの外交問題で日本の幕府との間に立って戦争の危機を回避した一般人として描いている)の中に何度も出てくる能登沖の航海の難しさや難破の危機、それを回避するための岬の重要性や明かりのことを思い起こし、その高田嘉平が乗った船もこの岬の狼煙を見て航海していたのかと、時を離れて同じものを見たような気になっていました。
また、この灯台の周りにはたくさんの石碑があって、歴史をつなぎ、また新たにここが日本の中心円の始点であるとの見解を記した碑もあり、周りの石の碑を見ているだけでも時間が過ぎていきました。
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