社長ブログ

第228回 「秀吉のお墓」

    歴史上の人物のお墓ってその由来や縁起もさることながら、本物かどうか、そこに本当に遺体、遺骨を納めているのかなど真偽のほどが良くわからないものもあります。

     戦国時代の三武将、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康のお墓もはっきりしないところがあります。

     織田信長は本能寺の変で明智光秀の謀反により自害しその遺体を探し回ったが見つからなかったと言われているだけに、本当に遺骨を埋めたお墓は無いと思われるのですが、近侍していた僧がその首級を持ち帰って納めた信長の墓がこちらにあるとか、実は生き延びて別なところに墓を作ったとか有名なだけにいろんな偽説?もまかり通ります。

     徳川家康は最期は隠居城だった駿府城で亡くなった後、本人の遺命で静岡の久能山に葬られました。
     2代将軍秀忠が久能山に東照宮を建てていますので、ここに遺骨があったのは間違いありません。
     ただし、3代将軍の家光が有名な日光東照宮を建てて、奥宮には巨大な家康の墓があることから、久能山から移設(今でいうお墓の移転)したのか、分骨(久能山から一部移動)したのか、今となっては掘り返さないとわからないそうです。

     さて、豊臣秀吉の場合はどうか。
    秀吉は権勢絶頂の時、伏見城で亡くなります。
    ただし、後継ぎ(豊臣秀頼)も幼く、側近(石田三成など五奉行衆)の力が弱く、その死を半ば隠すように京都阿弥陀ケ峯に埋葬されました。
    当初その山麓には豊国社という神社が創建され、正一位豊国大明神という称号で神として祀らわれました。

     しかしながらその後関ヶ原の戦い、大阪冬の陣、夏の陣を経て豊臣家が滅亡すると、徳川幕府の命令で豊国社は廃祀され、山頂の阿弥陀ケ峯のお墓も壊されてお参りする人も途絶えました。

     幕末に徳川幕府が倒れ、明治の代になってその豊国社が再建されて再び脚光を浴びることになりました。

     そして山頂のお墓の有った場所を掘り返したところ甕棺に入った秀吉の遺骨が見つかり、その遺体の向いていた方向まで特定できたとのこと。

     その骨はすぐに埋め戻されて今はその真偽を知る術もないですが、上記の再建された豊国社が中心となって明治31年に遺骨の埋まっていたところに五輪塔を建てたものだそうです。

     
     しかし、最近の私のコラムは階段関係が多いと感じますが、ここも下から一直線で489段の急な階段を上り、その先には想像を絶する大きな御影石の五輪塔。

     下台からの高さが3丈1尺(10メートル)に及び、ざっと目算でも本体の重量は20トン以上、外柵や灯篭などの付属品も入れると50トン以上の石をどうやってこの山頂に運んだのだろうかと不思議感が一般です。

     間近で見る秀吉の墓(明治の再建だが)は形こそ大きいものの、文字はほとんど彫っておらず、お墓も墓前灯篭も豊臣家の家紋の五七の桐だけが訪れる人を待っているだけでした。

    第228回 「秀吉のお墓」

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