山寺の階段上りの話の続きです。
山寺の主役は何といっても芭蕉です。
参道のいたる所で芭蕉の句碑や像が出迎えてくれます。
山寺の下の集落の中には芭蕉堂や山寺芭蕉記念館などもあり地域全体で主役は江戸時代の松尾芭蕉です。
ところがこの案内看板、芭蕉句碑の案内の後半にまるで借り物の様に追加で清和天皇宝塔の事も書かれています。
今までは見過ごしてしまっていましたが、何か気になってほんの少し脇道に逸れるとそこには立派な宝塔(古いお墓の形式です)があります。
石もこの巌壁の材質と同じ凝灰岩とみられます。
かなり大型で加工も上手です。
確かに凝灰岩は軟石で昔の工具でも加工は容易だったと思いますが、大きさもそうですし風化の度合いもそんなに昔の物か?という疑問があります。
宝塔の下台の下の基壇部分は同じ石でも風雨の影響で穴が開いたり形が崩れたりしていますが、下台から相輪までの本体部分があまりにきれいに残っているので或いは建て直したのかもしれません。
更には何で清和天皇の供養塔がここに?という疑問も浮かんできます。
立石寺の起源を見ると貞観2年(西暦860年)に清和天皇の勅願によって慈覚大使がここに開いたとあります。
清和天皇本人はここに来ることは無かったかと思いますが、地元ではその清和天皇の遺徳を偲んでのちに供養塔を建てたものでしょう。
そこまでは理解できますが、この案内看板にある当山で最も古いという時期はいつ頃だったのでしょうか?
亡くなって直ぐなら1,200年近くなります。
でも先の疑問から途中で建替えしていないのか、そのままの形だったのか、多少疑問が残ります。
モノの新旧はどうあれ由緒で言ったら確かにこの石塔が一番古いという事になるのでしょう。
残念ながら石製品には石材自体の編成年代が数千万年前、数億年前の為、木材の様に科学的な年代確定法が無く、造った時の加工工具や彫刻文字、そして刻んだ年代によってしか判別できません。
それからすると我われが遺す石の記念塔(墓石も含んで)には年代を彫るのは必須ですね。
そうしないと、先の案内看板の様に、時系列で先に芭蕉の句碑(芭蕉の門人たちが嘉永6年西暦1853年に建てたもの)が先に来て、それから1,000年近く前の清和天皇宝塔が後になる順番に違和感を覚えてしまうことにもなります。
ここから少し階段を上った先には変わった形のお墓が年代順に並んでいます。
こちらは無縫塔と言って僧侶の方のお墓の形です。
この山寺立石寺で勤行されてこの地で亡くなった歴代の僧籍の方々のお墓でしょう。
消えかかってはいますが微かに年代のようなものが彫られています。
軟らかい石の場合は早めに保存や拓本を採って保存しておく必要があるかもしれないですね。
そう言えば最後に思い出しましたことで締めます。
清和天皇と言えば武士のルーツ、特にこの天皇の子孫からの源氏は源頼朝や足利尊氏の先祖となり征夷大将軍にはこの子孫からでないと駄目とされました。
(源氏の元祖は他に嵯峨源氏や村上源氏など21流派があったそうです。)
同じく平氏は桓武天皇の子孫という事になっています。
(こちらの平氏も仁明平氏など4流派があるみたいです。)
他には藤原氏や橘氏に辿り着くお公家さんルートもあるようですが、江戸時代の家系図創りの専門家はその4姓のどれかに先祖を持ってきて創作していたと聞いたことがあります。
自分のルーツがどこに繋がっているのか、ひょっとしたら清和源氏の末裔だと想像してみるのも面白いかもしれません。


